当哲学カフェは、原則、課題本を指定して、それについて哲学対話するという形をコンセプトにしております。
どちらかとういうと、読書会を名乗ったほうがいいかもしれません(笑)。
さて、そんな、「読書」に関してですが、時折、「多読(乱読)」vs.「精読」の議論を目にすることがあります。
私は、「少しでも多く良書の知ってもらいたい」という、きっかけで、この哲学カフェを始めたのですが、この議論、どう考えればいいでしょうか?
多読の限界
今現在、出版されている山のような出版物、すべてに目を通すことは出来ません。
それでも、多読を薦めるサイトや実用書は溢れています。
がむしゃらに手当たり次第に乱読することも、勿論できます。
趣味・嗜好としては、何ら問題ではありませんが、哲学や学問といった文脈ですと、やや疑問符が付きます。
なぜなら、これ、「遭難」みたいなことになっていないか?
闇雲に道に分け入って、方向を見失い、遭難しているイメージがあります。成果が無いわけではないでしょうが。
おまけに玉石混淆。むしろ玉の方が珍しい。
本当の多読とは何か?
この議論の参考になる逸話があります。
戦後知識人の中で、異彩を放った、故・小室直樹の逸話です。
あるとき、参考資料とした福田歓一『政治学史』(東京大学出版会)が絶版になっていることがわかった。それを知って、小室は夫人に、こう話している。
「あー、そうか、絶版か。あと10冊買っておけばよかったね」
「そうでしたね」
佐藤が口を挟む。
「え? 先生、10冊買って、どうするんですか」
「佐藤君、くだらない本を10冊読むよりは、大事な本を10冊買って、100回読んだ方が勉強になるんだよ」(中略)
「いい本は、最低限10回は読みなさい。君らがいつまでたっても頭がよくならないのは、だからだ」そんな冗談をいった。
「凡庸なのは、たった一回しか読まないからだ」
村上篤直『評伝 小室直樹(下)』ミネルヴァ書房、20018年、546-547頁
なるほど、天才とはこう学ぶのか。
何度も読んで理解できる本、読むたびに発見がある本、生涯の伴侶のような本・・・。
情報の賞味期限
要するに、「何を」多読するのかが問題なのではないでしょうか。
特に、ここで注意したいのは、「情報」と「知識」は同義で扱われることが多いですが、そこに微妙な違いがあるということ。
「情報」とは、それそのものだけでは「事実」の羅列であり、これを取捨選択したり応用したりする力が必要です(もちろん、この「情報」の中にも玉石、真偽あるのですが)。
そして、この「情報」を扱う本が圧倒的多数であること。
さて、この応用する力というのは、概して、「抽象化能力」と関係あるようです。
「情報」は真偽もさることながら、「賞味期限」の問題があります。
時代状況に左右されてしまい、使えなくなるリスクです。
抽象化につながる読書は、これが少ないものです。
極論を言えば、「抽象的」なものは時空間に左右されない場合すらある(数学など)。
多読は自ずから精読になる
抽象度の高い本が、情報の取捨選択と応用の基礎になるとして、そういった本とはいったい何なのか?
それはつまり、「古典」と呼ばれる本でしょう。
「結局、また古典かよ!」
と言われそうですが、時代を超えて生き残っているということは、抽象的な論証や証明、示唆、警鐘に溢れているから残っていると言えるのではないでしょうか?
膨大な現代の出版物の洪水に飛び込むよりも、古典の森を歩いてみた方がいいのではないか。
それでも、結局、乱読、多読状態に陥ります。
なぜなら、全学問の基盤たる哲学、更に、各専門分野、それらの古典・名著・良書だけでも膨大な数に及びます。
古典の多読状態。
はっきりいって、有象無象の本を読んでいる暇など人生にありません。
真の多読は自ずから精読となる。