オンラインの哲学カフェはやらないの?

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2020年は新型コロナウイルス禍により、日本にとっても、世界にとっても、大変な年になっています。

とにかく「接触」を絶て!という訳で、哲学カフェも、現在休会中なのですが、「オンラインで開催してみては?」というお声を多数頂いております。

確かに、この状況だと、大変有効な手段だとは思えるのですが、なかなか踏み出せない。

少し検討してみたいと思います。

グループトーク哲学カフェ

メッセージアプリのオンライン哲学カフェはどうでしょうか?

グループトーク機能を使えば、チャット形式で開催できます。

ここで心配されるのは、いわゆる「荒らし」でしょうか。非匿名性も手伝って、対話が阻害されかねません。

また、「言葉」が画面上に「躍る」こと自体に実は欠点があるかもしれません。

この問題の示唆になるのがプラトンの対話篇『パイドロス』。

プラトンは、「書き言葉」(書物)について、次のようにソクラテスに語らせて、対話の重要性を説いています。

「それに、言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。(中略)あやまって取りあつかわれたり、不当にののしられたりときには、いつでも、父親である書いた本人のたすけを必要とする。自分だけの力では、身をまもることも自分をたすけることもできないのだから。」

プラトン『パイドロス』岩波書店、1993年、136 -137頁。

「書き言葉」。本ではありませんが、スマホやパソコンに書かれた言葉もこれと同じ延長にあるのではないでしょうか?

非対面、相手の「顔」が見えない故に、誤解される。

ここでの「顔」とは表情や声のトーン、仕草など、幅広い意味で使っています。

相手の「顔」も対話の重要な要素ではないでしょうか。理解度や賛否の度合いなどが、言葉以外にも表出され、それをも含めて対話を進めていく。

逆に、オンラインだと、画面に「躍る」言葉のみに、議論が「踊る」ことになってしまわないか。

ウェブ会議(テレビ会議)式の哲学カフェ

では、最近流行りのウェブ会議方式はどうでしょうか?

なるほど、こちらは、「顔」は見えますね。

画面を媒介しているだけで、対面式対話と変わらないのではないか?

しかし、これも、対面式の対話と全く同じかと言われると、若干、疑問符が付く。

「何か」が足りない気がします。

それは、おそらく、場の「空気感」とか「体温」とかといった極めて、非論理的な部分の共有ではないか。強いて言えば「身体性」。

それは、その場に一堂に会した時にしか「生まれない」気がします。

勿論、オンラインといった技術により、普段参加できない様々な事情(遠隔の地の人や子育てしている人、病床の人etc.)の人たちが、対話に参加できるというメリットは大きいと思います。

なので、否定しているつもりはありません。

ただ、当哲学カフェの「本」と「対面対話」というコンセプトからは、なかなか採り難い形式だなぁ、と思う次第です。

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