先日、NHKのETV特集「7人の小さき探求者~変わりゆく世界の真ん中で」を観ました。
哲学対話や哲学カフェに関わる人たちの間で話題だったようです。
仄聞するところ、各方面から絶賛されているようですが、このドキュメンタリーを観て私が抱いた印象は、強い「違和感」でした。
「P4C」とは何か?
このドキュメンタリーの舞台は、宮城県気仙沼市の公立小学校。その6年生の児童7人が参加する「P4C」(Philosophyfor children/子どもの哲学)という哲学対話の姿を追ったものです。
P4Cは、米国のM・リップマンらが主導した教育方法(実践活動)です。
リップマンの問題提起は、学校に通い始めたときに子どもがもっていた好奇心や想像力がなぜ損なわれてしまうのかという点にあった。彼はその原因が〈知識を伝達する〉という教育モデルにあると考え、それに代わるものとして〈探求の共同体への参加〉というモデルを提案する。
(中略)このとき、教員は知の権威者としてではなく、子どもたちの探求を促進するためのファシリテーターとして、そして自らが探求の共同体の一構成員として対話に参加することが求められることになる。
納富信留・他編『よくわかる哲学・思想』ミネルヴァ書房、2019年、200-201頁。
番組の中では「人々が望んでいる“平和”とはどのようなものだろうか」という問いで哲学対話が展開されます。
その問いを重ねる姿は、確かに、探求の共同体の姿であり、参加した児童各人が言葉を吟味していく姿は、感動的です。
ところが、その次の展開から、違和感が生まれてきました。
新型コロナ禍の一斉休校の中で・・・
この撮影中(2020年2月)、新型コロナウィルス感染拡大阻止の為に、政府から全国の小中学校に対して一斉休校措置が要請されます。
子どもたちとっては、突然、小学校生活が終了してしまう事態で、悲痛な叫びが漏れます。
子どもたちは自主的に「対話」を始めます。
「なぜ子どもの意見を聞いてくれないのか」と。
図らずも、ここにP4C、ひいては市井の「哲学対話」全般とアカデミックな専門知との対立軸が露わにされています。
専門知が立ち塞がる時
感染症対策とそれに伴う危機管理は、公衆衛生学などの科学的知見、即ち専門知によって判断すべきものです。
例えば、急病や怪我の時に、医師と患者の意見、どちらで判断すべきでしょうか?
例えば、遭難しそうな船で、その対応を航海士と乗客どちらに任せるべきでしょうか?
もちろん患者や乗客(=子どもたち)の意見(思い)を無視しろと言っているのではありません。しかし、起こっている事象が専門知によってしか解決されないのであれば、まずは、その判断を前提にして、事を進めなければなりません。
(ひとつの科学的見地自体の妥当性や科学と政治の齟齬の問題はありますが)
「哲学対話」は時に、専門知を無視(あるいは対話の結論と等価値にして)、その場の共通了解・合意を優先してしまう側面があります。
「問い」は立ち止まらないか?
一斉休校により、子どもたちは自宅で過ごすことになります。
カメラは、そこを訪ねますが、子どもたちは、暇を持て余してしまっています。
テレビゲームをしたり・・・。
学校での「対話」の時間を失い、「考える」ということが立ち止まってしまっているような。
そんな、どこか虚脱感のある光景が映し出されます。
ここに強い違和感を感じてしまいました。
それは、この突然の「時間」を利用してこそ実践できる、「過去との対話」という方法が、すっぽり抜け落ちているからです。
決して、「対話」というものは、目の前の友人と行うだけが対話ではないからです。
即ち、「対話」というものの意味が狭すぎる
今、子どもたちに必要な対話相手は、「本」です。
「あらゆる良書を読むことは、過去の最良の人々と語り合うことだ。」
ルネ・デカルト
確かに、彼らの「問い」は、とても素晴らしい、宝石のような輝きを持っています。
しかし、それは原石であって、金脈の入り口に過ぎない。
そこで、原石を磨き、鉱脈へと降りるランプは、ゲームやネット検索ではないはずです。
「問い」は始まりに過ぎない
たとえ、学校が閉鎖されていても、時空間を超えた古典・良書という最良な「対話相手」は、一生かかっても語り終えられないほど、文字通り星の数ほど控えてくれています。
また、もうひとつ、その「対話」を導いてくれる存在があります。
「教育」であり、「学問」です(読書も広義にはここに内包されるでしょうが)。
学問はそのためにこそあります。
学問は、その「問い」を解明しようとした人々の悪戦苦闘、切磋琢磨の記録の山です。
(勿論、現在の日本の教育システムを手放しで礼賛するものではありません)
繰り返しますが、素晴らしい「問い」または「疑問」は、最初の一歩なのです。
そこから飛躍するためには、読書と学問が必要なのです。
「問い」は小さな芽であり、そこから育てなければならない。
今回のドキュメンタリーでは、哲学対話から飛躍する、その部分が見えませんでした。
児童が、ネットで「問い」を「検索」する姿もありました。
教育者には、そこで、ネットなどではなく、素晴らしき、インクの匂いのする「過去の対話相手」の存在を伝えて欲しい。
学問と切り離された「哲学対話」は、漂流し、さまよう危険すらあります。
学問的真理の無力さは、北極星の「無力」さと似ている。北極星は個別的に道に迷った旅人に手をさしのべて、導いてはくれない。それを北極星に期待するのは、期待過剰というものである。しかし、北極星はいかなる旅人にも、つねに基本的方角を示すしるしとなる。
丸山真男『自己内対話』みすず書房、1998年、115頁。
また、初等教育で、今後P4Cが広まっていくならば、中等教育にその次のステップ(受け皿)が必要でしょう。
それは、例えば、フランスのリセのように、「哲学」科目の設置を視野に入れるべきだと考えます。アカデミックな「哲学」は、間違いなく力強い輝きを放つ北極星の様なマイルストーンになるでしょう。
※言う間でもないのですが、限られた時間の映像番組で、また演出の意図など、様々な要因が絡むものですから、紹介されたP4Cの活動が、その全てという事はないと思われます。ですから、あくまで放送された範囲内に対しての所感です。