哲学対話と「政治」~平壌で哲学カフェを、香港で哲学対話を

Auschwitz

一応、「哲学カフェ」の看板を掲げて、会を主宰しているのですが、先般、学問の自由と政治権力による介入の問題(2020年10月:日本学術会議の会員推薦を、首相が任命拒否した問題)で、政権を批判したところ、「哲学カフェが、政治色の明らかな発言をするのは残念。」という主旨のご批判を頂戴しました。

確かに、当哲学カフェは、課題図書として丸山真男を取り上げあげ、テーマとして「天皇制」や「死刑」を扱ったり、映像作品でも押井守の劇場版アニメーション「機動警察パトレイバー2theMovie」(作品のテーマが自衛隊のクーデター)を扱うなど。極めて、「政治」哲学的な場になっていると自覚しています(というか、意図的にそうしています)。

今回のご批判は、大変重要な論点であり、この課題を考え、併せて、哲学カフェ・哲学対話などと称される市井の「哲学」の場(以降、「哲学カフェ」で統一してしまいます)と「政治」との関係を考えられれば幸いと思います。

「哲学」と「政治」

哲学カフェと政治を考える前に、哲学と政治の関係を考えたいと思います。

この文脈ですぐに想起されるのが、ソクラテスとプラトンでしょう。

哲学の目的が「真」の希求(解明)であるならば、哲学者は、現実の社会状況・政治社会に対して、ただただ「超然」としていることになります。

ところが、現実には、そこに「摩擦」が起きます。

特に、政治権力・社会的権勢にとって「邪魔」になる場合が多い。

それを身ひとつで体現してしまったのがソクラテスです。

彼の問答(ディアレクティケー)は、「なぜそうなのか?」と問い続けることによって、多くの知識人・有力者の「無知(不知)」を曝け出すことによって、彼らから、「憎悪」を受けます。(そして一握りの人々からは盲を開いてくれたと感謝されたでしょう)。

かくして、ソクラテスは裁判にかけられ死刑判決を受けて、毒杯を仰ぐことになります。

ソクラテスを後世に刻み込んだのは、彼の弟子たるプラトンです。

彼は、この哲学と政治の関係(摩擦、緊張関係)を、主著『国家』で集中的に問題にする訳です。

プラトンは、真の哲学者が、ただ真理を追究するだけでは、不十分だと考えています。

「しかしね(中略)それだけでは、最大のことをなしとげたと言うわけにもいかない。―彼の住む国家のあり方が、自分の素質にぴったりと適合したものでないならばね。なぜなら、そのようにぴったりと適合した国家においてこそ、彼自身ももっと成長するだろうし、個人的なものとともに公共の事柄をも、安全に救うことになるだろうから」

プラトン『国家』(下)岩波書店、2000年、51頁。

哲学者、現代で言えば学者が、象牙の塔にこもり、研究だけに没頭し、現実の政治社会に背を向けることは、哲学者の在り方として「不十分」であるし、おそらく、権力の側が、放置しないでしょう。

(それなので、プラトンはその解決策として、「哲人統治」という極論を提示します)

次に、近代まで進んで、トマス・ホッブズの言葉を見てみましょう。

もしも「三角形の三つの角は、正方形の二つの角に等しい」ということが、領土についてのだれかの権利とか、所有者の利益とかに反するならば、この説の審議は論争されなくとも、幾何学にかんするあらゆる著作は焼きすてられ、関係者の力の及ぶかぎりこの説が抑圧されたであろうことを私は疑わないのである。

トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』(世界の名著28)中央公論新社、1999年、138頁。

政治権力は、それ自体、権力を希求する欲望から逃れられません。これは、どのようなイデオロギーであるかに関わりのない「本能」の様なものです。

また、丸山真男はこんな指摘をしています。

宗教・学問・芸術・経済などにならぶ政治固有の領域はなく、却ってそれ等一切が政治の手段として動員されるということに注目しなければなりません。

こうして政治はその目的達成のために、否応なく人間性の全面にタッチし人間の凡ゆる営みを利用しようとする内在的傾向を持つのです。

丸山真男『政治の世界 他十篇』岩波書店、2014年、91頁。

政治権力は、残さず全てを手段化します。

特に学問は利用価値が高いです(軍事兵器を見よ、プロパガンダを見よ)。

しかし、権力の手段化は、学問の目的(「真」に至る道)にとっては、往々にして障害でしかありません。

ここに両者の緊張状態が生まれます。

「真」に至るためには、学問は「自由」に議論し、「自由」に観察し、「自由」に実験しなければなりません。この「自由」が国家にとっては目障りであり、国家の目的に益さない。

国家にとっては、利用できる(主に科学技術)部分は利用し、利用できない部分(人文学系統)は捨ててしまい、権力を拡大したい。

「時の政権」の問題ではない

哲学(学問)と政治権力の関係が、こうなってしまう以上、その対立・緊張関係は、宿命であり、さながら永久戦争の様相を呈します。

なので、人類から学問が失われるまで、あるいは、政治的共同体が消滅するまで、この鍔迫(つばぜ)り合いは半永久的に続きます。

時の政権、国体の問題ではないのです。普遍的かつ悲劇的な関係なのです。

故に、学問をなす者は、常に権力と、程度の差はあれ何かしら敵対的にならざるを得ない。

全体主義国家は言うに及ばず、限りなく自由な民主国家ですら。

いかなる(・・・・)政治権力であろうと、それが政治(・・)権力(・・)である限り人間の良心の自由な判断をふみにじり、価値の多元性を平板化し(これ)に強制的な編成を押しつける危険性から全く逃れていないのである。

丸山真男、同上書、63頁

では、学問・アカデミズムに関してはわかったとして、哲学カフェは、どうなのでしょうか。

学者・知識人はともかく、市井の一般市民の集まる哲学カフェに、ここまでの「覚悟」「気概」が必要なのでしょうか?

「政治色」?「党派性」?

ここで話を戻します。

当初受けたご批判は、別の言い方をすれば「政治的中立を守れ」と捉えても間違いではないでしょう。

哲学カフェに「政治的中立を」を求める時、一体、それは、何からの中立を謳っているのでしょうか?換言すれば「何をするな」と命じているのか?

それは、「党派性を持つな」「権力性を持つな」という事だと解釈しています。

池田晶子が、ソクラテスについて、こんなことを言っています。

①正義とは何か

②「正義」とは何か

①は語の内容を問うている。②は語の形式を問うている。(中略)彼の問い方はいつだって、②の仕方でしかなかった。

池田晶子『メタフィジカル・パンチ』文藝春秋、1996年、11頁。

①が内容を伴うとは、個別・特殊なそれを言っている訳です。「アメリカの正義」とか「イスラムの正義」とか。

対して、②は時空間を超越した「普遍的」「形而上的」な「正義」を問おうとしている訳です。

そして、哲学は、この②の普遍原理から現象界の個々の正義を捉え返すことになります。

この考え方を、政治のお話に敷衍すると・・・

①政治とは何か

②「政治」とは何か

ということになります。

ここから何を言いたいのかと言うと、普遍的な「政治」あるいは「政治的なるもの」を追求し、そこから①の政治、つまり、現実の政治情勢・権力闘争(党派性と権力性の檜舞台!)を捉え返すことが、哲学、その中でも政治哲学という学問分野の重要な使命ということになります。

それを学外で、市井の場でやれば、「政治哲学」カフェ、あるいは「政治」的な哲学カフェになるでしょう。

「政治」を対象化、概念化、抽象化するところに、(理論的には)党派性や権力性は顔を出せないのではないでしょうか。

つまり、特定の政党や特定のイデオロギーへの賛否はしません。それら自体が考察の「対象」とされ、「抽象化」の為の素材になります。

「哲学カフェ」は政治社会から超然としていられるのか?

しかし、政治哲学的な問題を扱う哲学カフェならいざしらず、他の多くの哲学カフェにとっては、それは、無関係なことではないのか?

政治哲学を扱う哲学カフェだけの問題なのではないか?という疑問が出てくるかもしれません。

多くの哲学カフェは、日常と離れて、様々な疑問や問題、当たり前な事、人生の悩みを、社会的立場を離れて、フラットに対話をする場になっています。

確かに、そこに「政治」の余地はないかもしれません。

ところで、哲学カフェの場は、概して「安全・安心」に対話する場と位置づけられるようです。

しかし、この「安心・安全」の場は、如何に保証されるのでしょうか?

参加者の倫理観?主宰者の意識?傾聴の姿勢?自己顕示の抑制?

然り、然り。

ところが、あまり言われていない点、大前提があります。

それは、社会が言論の自由を承認していること。

「言論の自由なんて、何をいまさら・・・」という声が聞こえてきそうですが、それは、一応(・・)、民主国家で生活しているから、「当たり前」になっているだけです。

「当たり前」を疑うのが哲学、ならばそこも疑った方が良いのではないしょうか?

私が問を立てるならこうです。

《「哲学カフェ」は政治社会から超然としていられるのか?》

と。

様々な社会問題が日々、全国津々浦々で哲学対話されています。ジェンダーや格差社会、人権、恋愛、職業etc.

しかし、それは、言論の自由があればこそ可能なのであり、もしそれがなければ、そもそも最初の一語たりとも始まらないのです。

そして、その言論の自由の生殺与奪の権を握るのが、政治権力です。

ピョンヤンで哲学カフェを

日本においては、政治の特異性というものがあまり意識されていない気がします。

政治権力(国家)が他と大きく区別されるのは、合法的に領域内(国内)の最大の暴力を独占することです。

ひとたび、政治権力が学問・言論を踏みにじろうと決意すれば、それはたやすいものです。

兵士にドアを蹴破られ、警棒や銃尻で殴られれば、それで終了です。

言語は肉体言語に屈します。

政治から超然としてるのを許さないほど、政治は強大です。

その光景を我々はもう見ています。20世紀の悪夢に遡らなくても、2020年、香港のデモクラシーは死に、香港警察は警棒で学生たちを殴り連行していく。

香港で哲学対話ができますか?

北京や平壌(ピョンヤン)で哲学カフェを開催できますか?

もし開催するなら、二通りの方法があるでしょう。

『テヘランで「ロリータ」を読む』という本があります。イラン革命後のテヘランで、宗教警察に怯えながら、自宅で女子学生達と発禁本の西洋文学を読む秘密読書会を開いた女性文学者の回想録です。

これと同じように、逮捕や、その後の拷問や処刑に怯えながら、知の灯を消すを良しとせずに、秘密の地下哲学カフェを続ける。

他方、堂々と行うこともできます。体制側に忖度し、体制を一切否定しない「非政治的」哲学カフェを開催すること。もちろん監視の政治警察やら人民委員のおまけ付きで。

ここで、先ほど保留した問いを改めて、考えてみましょう。

政治に対して、学者・知識人はともかく、市井の一般市民の集まる哲学カフェに、ここまでの「覚悟」「気概」が必要なのでしょうか?

哲学という営みにいとって、学問・アカデミズムと哲学カフェはコインの裏表のようなものです。

表面が削り()り潰されれば、次は裏面です。

時の政権の賛否ではなく、哲学カフェや学問・アカデミズムを全て含んだ「哲学の自由」という抵抗線を一歩も退かない為に、何が必要でしょうか?

言葉を奪われない為に

幸い、日本はそんなところまでは、現状(・・)()行っていない。

しかし、いつまでそうなのかは、わからない。

下記は、反ナチス運動家のマルティン・ニーメラー牧師による警句です

ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。

それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。

それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。

さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。

マルティン・ニーメラー※1

ニーメラーは、「端初に抵抗せよ」「結末を考えよ」と言います※2

何が端初なのかは、後世にしかわからないでしょう。

だからこそ、言論が、学問が侵される「気配」に敏感でならなければならない。

仮に、学問・アカデミズムの「自由」が侵されたならば、次は市井の知の場としての哲学カフェです。

言葉は徐々に奪われて行きます。

故に「学門の自由」への侵犯への批判は、党派性・権力性とは関係ない、大前提を守る為の行為です。

「結末を考えよ。」

【脚注】

※1.丸山真男による訳。丸山真男『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1991年、475-476頁。

※2.同上書、476頁。

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