当哲学カフェ「アテナイの散歩道」を始めてから、「なんで課題本があるのか?」と、よく聞かれます。
まあ、確かに、「哲学カフェ」というと、大体、事前または当日にテーマを決め、それを参加者で議論していくスタイルが主流のようです。
一方、当カフェは、基本的に、課題図書(作品)を指定しています。
読書会形式ですね。
なぜか?お答えしましょう。
「自分に自信が無いからだよ!」
・・・ていうのは、まあ冗談、ではなくて半分本気にそう思っています。
と、言いますのは、司会進行するにあたって、とてもじゃないが、徒手空拳で対話を回していく自信が無い。謙遜とかじゃなくて。
本があれば、そこを出発点に話を広げていきます。
あと、もう半分の理由は、過去の賢人の肩を借りるというか、その視点、思考の深さを前提に話ができるからです。
テーマを前に、徒手空拳で議論して行くと、議論が皮相になったり、内輪の基準での安易な結論に妥協してしまったりしないかという恐怖感があるのです。
ぶっちゃけ、井の中の蛙大海を知らず状態にならんかと。
もちろん、テーマだけでやっても、かなり深遠な議論をする事もできるだろうし、本を読んでも皮相な議論に終始してしまう可能性もありますが、要は、確率の問題です。
何らかの優れた哲学書を参加者が共有した状態で出発すれば、とりあえず、その深さが基準点になるので(なるはずと信じて・・・)、議論もそのベースで進むだろうという「期待」ゆえに、読書会形式の哲学カフェという形に落ち着きました。