主催者の藤沢です。
今回は池田晶子著『14歳からの哲学』を、すべて読んでいく連続企画の第1回目でした。
この本を選んだのは、専門用語なしに、日常の言葉で、語ってくれる、稀有な哲学書だと思っているからです。
まずは、参加者の方々に、読まれてみての感想をお聞きしました。
- 基本。本当に基本。だから大事。
- 昔、読んだときは、全く頭に入ってこなかったのに、今回読んだら、すごい読めた!スラスラ頭に入ってくる。
- 出会って以来、引きこまれている。池田晶子の言葉で「この世には一人しかいない」というのが特に好きだ。(別の本の言葉です)
やはり、ただの哲学入門書じゃないですね。
最後のなんか、恋をしているような感想です。
それだけ、人を魅了する力を持った哲学者(本人は「文筆家」と名乗ってらっしゃいました。曰く、「哲学者というのは自分から名乗るものではない」)ですね。
さて、そもそも、なんで「14歳」なのか、というメタ的な疑問から始まりました。
そういえばエヴァンゲリオンのパイロットも14歳だよなぁ、なんて感想も漏れつつ(笑)、14歳は可能な限りで一番早い年齢ではないかとの見立てになりました。
何が?
それは、抽象的な思考を反省的に行え、なおかつ、批判的に見過ぎずに、素直に読める、換言すれば、己の精神の血肉とするのに。
「考える」と「思う」
と、まあ始まったわけですが、様々な論点が、出るわ出るわ。
本書でも言及されている「考える」と「思う」の違いについて。
この「考える」の道具たる論理を日本人は大変苦手にしているのはなぜか?
それは、インド哲学・仏教哲学が中国を通って、日本に伝来する過程で、「論理」が剥がれ落ちたからではないか?
いつの間にか、「屁理屈」と言われるように、「理」を見下したし、それをさして重要だとは思っていなかった。
また、「考える」と「思う」を、「哲学」と「思想」という形に置き換えて、考えてもみました。
なんで、西洋哲学やインド哲学はあって、アジア哲学と日本哲学とかないの?日本思想という括りなのか?
「思想」は全部の前提(社会や歴史)を捨象しきれていない。対して、哲学はそれを徹底化した稀有な例外ではないか、と。
なぜ「美しい」のか?
大きな話題になったのが、「美しい花」の「美しい」とは、何なのか?です。
「美しい花」を見ている自分は、花を見ているというよりは、「風景」を見ているのではないか?その風景の文脈の中で、花は美しいと位置付けているだけではないのか?
つまり、これは、事物に「物語」を与えているということなのか。
これは大変面白い視点だなと思いました。
これに関連して、「美しい」は、文化の刷り込みの問題なのではないのか?という意見も挙がりましたね。
「美」は距離感だ。という意見も。なるほど、遠ざかれば、遠ざかるほど、それは美しさを増し、「美」そのものが一番遠いから一番美しい、という。
また「美」という概念を論じる以前に、概念をうまく把握できない、というお話は興味深かった。
経験事実として、花が「ある」、それを他人が「美しい」と言っているのは、理解できるが、なぜ、そう言っているのか、なぜそのラベリングをしているか?その抽象化がわからない。
逆に、それ故、語彙を調べて、追い続ける作業を徹底していて、その知識を得ていく時間は幸福だと、仰っていました。
酒と哲学と・・・
とにかく縦横無尽に語りまして、一旦お開き。
結論が出ないのは宿命みたいなもので、場を酒席に移して延長戦です。
ここで勃発したのが、「哲学は社会を変えうるか」論争。
お一方は、「哲学」(形而上学)を自己の中で、考えることに集中している。哲学は哲学の中で孤高に完結し得る。
もうお一方は、「哲学」はその成果?を、社会に向けて発信し、変革するために還元すべきとの考え。
いやあー、これって、哲学者がとても苦悩する問題ですね。
その白熱の議論を肴にビール4杯は行けました(笑)。
・・・いかがだったでしょうか。
少しでも空気は伝わりましたか?
少しでも、興味が湧きましたら、是非一度、足をお運びくださいね。