今回はSF文学の巨人アーサー・C・クラークの代表作「地球幼年期の終わり」をテーマに、哲学カフェを開催いたしました。
さすが、というべきか、SF史を語る上で欠かすことのできない作品というだけあって、コアなSFファンの皆さまにお集まりいただきました!
ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました。
写真では顔が隠れていますが、皆さま、大好きな作品を語った後で満面の笑みです。
本作を読むきっかけは様々でした。
- 20年以上前に読んで、懐かしかったから。
- 「2001年宇宙の旅」シリーズの大ファンだったから。
- 今話題の『三体』を読んだから。
- 昔、プレイしたゲームソフト「ゼノギアス」のボスの名前が「カレルレン」だったから(!)。
ユートピアはディストピアなのか?
さて、対話の方ですが、まずオーバーロード(上帝)の作り出したユートピアに関して。
「戦争は発明の母」と言いますが、完全平和を達成した人類が怠惰になっていく姿もここでは描かれていますね。
対立や紛争がなければ、文化や技術の発展もない。
というやや悲観的な世界観が提示されています。
カレルレンに抵抗する人々も描かれていました。
また、このユートピアにおいては、宗教が崩壊している。
オーバーロード自体が神に等しいともいえるのですが、議論では、「神話」が崩壊したことの方が重要であると。
歴史を見ることの出来る装置は、隠蔽されていることで神秘性を確保してきた宗教者のカリスマ性を根こそぎ破壊するだろうと。
仏教だけが生き残っているのは意味深で、「果たして仏教は宗教なのか?」という議論もありました。
そういえば、本作の時間概念も、キリスト教的直線概念ではなく、ギリシア的な循環論で、これは仏教にも通じるかもしれません。
次のステージ・・・
あとは、人類が次のステージに進むことに対する是非が議論されました。
人類はもはや孤独ではない
これは、本編冒頭、オーバーロードの宇宙船団飛来時のそれを目撃した地球の科学者の感嘆ですが、実はこれには二重の意味があるのではないかと。
つまりストレートに「異星人がいた」こと。
もうひとつに、やがて人類が群体からひとつになることの暗示。
「進化」それ自体も果たして、オーバーマインド(神?)が画策する「収斂タイプ」(多が一になっていく)が進化なのか?逆に「複雑化タイプ」(一が多に分岐していく)が進化なのか?
意見が分かれていました。
人間の心は海に囲まれた島だと考えてみてください。
それぞれに隔絶されているように見えますが、実際には、海底の岩盤でつながっています。
海の水が消えたら、島は一つも残らない。
それまであったものはすべて一つの大陸の一部になるんです。
ただし、個としての存在は失われます。
光文社古典新訳文庫版
これは、オーバーロードの心理学者が、新人類を説明する部分ですが、これを読むと、オーバーマインドとは「世界霊魂」(アニマムンディ)の事を示唆しているように思えます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/宇宙霊魂
カレルレンの深謀遠慮
本作では、「個性」を残すのがオーバーロードで、逆に「個性」を抹消するのが新人類でした。
でも、クラークが愛着を持っていたのは前者である気がする。
それは、「個性」の持つ理性を信頼しているからではないか?
カレルレンはあくまで、オーバーマインドに面従腹背して、己の理性を駆使して探ろうとしている節があります。
これって、最終的にはオーバーロード対オーバーマインドになるのではないか?
なんかカレルレンが主人公で続編が書けそうな雰囲気ですね。