よくある光景
哲学カフェなどで、議論の流れを眺めていて、いつも思うのは、
「なるほど、こんな持って行き方があるんだなぁ」「そんな視点があるのか」という感心や発見です。
でも同時に、
「これ、あの本にあったな。」「あの論争で出ていて、ある程度決着ついてたなぁ。」
という、哲学史、学問の世界で既出の論争、論点の再現だなぁ、という場面に度々出会うことです。
「巨人の肩に乗る小人」
もし最初から学んでいれば、その出発点からスタートすることができる。
例えば、何らかの数学の公式を一生かかって発見するのと、発見された公式を数学の授業で学んでから数学を学習して、そこから己の考え(理論)を構築するのと、果たしてどちらが速いのでしょうか?
人の時間は有限ですから。
「巨人の肩の上に立つ」という言葉が西洋には古くからあります。
論者にとって微妙な違いがありますが、学問や科学において、過去の遺産・蓄積(巨人)の肩の上に載っているから、我々はより遠くを見ることができる、そこから出発できるという意味です。
巨人(学問・教育)が無ければ、我々は、自分の身長の高さからしかスタートできません。
これを現代風というか、俗っぽく言うと「コスパがいい」と言えるかもしれません。
巨人なかりせば
哲学カフェのようなところで、一番懸念されるのが、その場だけの独断、独善・偏見に陥ってしまうことです。
「その為にファシリテーターがいるのだろう」と言われそうですが、逆に言うと、そのファシリテーターの力量と言いますか、学識・教養・思想に左右されるリスクがある。
また、参加者は、歴史的・社会的立場から、大なり小なりバイアスがかかってしまいます。人は、自分の立つ集団や慣習、歴史空間からは、究極的には逃れられませんから。
では、どうしたらいいのか、という問題なのですが、巨人、つまり専門知をある程度、「道しるべ」「出発点」「基準点」にすることが得策かな、と思っています。
そうすれば、少なくとも、その議論の水準から対話は始まりますし、参加者の前提知識にもなります。
知識がないとだめなのか?
このように書くと、
「では、前提となる知識・学識がないと哲学カフェに参加してはいけないのか?」
「哲学初心者や、テーマに詳しくなければ遠慮した方がいいのか?」
という疑問があるかもしれません。
結論からいうと、全くそのようなことはありません。
全くの専門外であっても、初学者であっても、テーマに興味さえあれば、ぜひ参加していただきたいと思っています。
むしろ専門知識がない方の意見は、新鮮で時にハッとさせられることがしばしばあります。
ソクラテスの逸話にこのようなものが伝わっています。
「さらにまた彼は、人は知らないことを学ぶのは少しもおかしいことではないといって、もうすでに高齢であったのに、リュラ琴を習い出した。」
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(上)』岩波書店、1984年、143頁。
どのような立場、年齢であろうと、いつでも、学問の道、巨人との出会いは開かれています。
当哲学カフェでは、課題作品をもとに議論をすすめていきますので、課題作品さえ読んでいただければ、少なくとも、その課題作品で扱うテーマに関する「知識」は同等であり、同じスタートラインから始めることができると思っています。
ちなみに、哲学カフェ初参加の方も多く、参加者の半数以上が初参加の方、ということもよくあります。
今後も、幅広いテーマを扱っていきたいと思っていますので、ご興味のあるテーマがあれば、ぜひご参加をお待ちしています。