あなたが行っているのは本当に哲学カフェ?

cafe

皆さん、なぜ哲学カフェに行くんでしょうか?

教養を高めるため?

社会問題に関心があるので?

そもそも「哲学」って何かわからないから?

本当に十人十色だと思います。

これが、株や投資のセミナーだったら、「お金儲け」という参加者共通の目的があるんで、わかりやすい。

ところが、哲学カフェはそうじゃない。

参加者の目的が十人十色なら、運営・主催者側の「哲学」観も十人十色。

学問としての「哲学」だと、ここまで大きなズレは生じない。

例えば、東大哲学科と京大哲学科が「全く」違う世界観、お互い未知の異次元のことを教育・研究している、みたいな事は無いんですね。

ところが、哲学カフェには、これがあるんです!(笑)

Aというカフェに行って、「あー、なるほどこれが哲学かあ」と納得して、今度はBというカフェに行ってみたら、全然違う!

同じ「哲学」の名称掲げているのに!

woman

これ、哲学カフェあるあるです。

どうして、こういう事になるかというと、「哲学」の定義自体が定まっていない(ないしは広すぎる)からでしょう。

もともと、「哲学」がフィロソフィア(知を愛する)という、良く言えば懐の深い寛容な概念、悪く言うと、曖昧模糊な概念故に、あらゆるものは哲学と名乗るだけで哲学として一応成立します。

対して、学問、アカデミズムでは、議論はありますが、一応の「哲学」の範疇みたいなものはある。共通了解が。

例えば下記を比べてみてください。

①「西洋哲学」「数理哲学」「インド哲学」「自然哲学」「社会哲学」「経験論哲学」etc

②「人生哲学」「経営哲学」「バッティングの哲学」「恋愛必勝の哲学」「健康長寿の哲学」etc

この両者で、「哲学」の言葉の意味はかけ離れていませんか?

①は、アカデミズムの中で、一応その範疇や方法が定まっている「哲学」です。

②は、その用語作成者が思い思いに作った「哲学」です。

アカデミズムに②が入ってくることは有り得ません(その筈ですが)、対して、哲学カフェというのは、なによりも、自由に作れますから、①も②も混在です。

Athenian's School Hall

大学院顔負けの私ゼミをやっているところもあれば、時事問題に絞っているところ、お茶会みたいなところ、詩を吟じたり、芸術鑑賞会のようなところまで、とにかく自由です。

アカデミズムの方に、「哲学カフェ」の話を振ると、微妙な空気になるのはこの為でしょう。

哲学カフェに行ってみたい、という方は、まず、自分が、何を知りたいのか?何がやりたいのか?をよくよく考えて、各カフェの特徴を見極める必要があります。

また、1つだけ行って、「思っていたのと違っていたから、もういいか」等、判断しないことをお勧めします。

そして、哲学カフェに行くだけではなく、やはり、哲学書、中でも古典は読まれた方がよいと思います。

玉石混交の中から、「歴史」というフィルターを通ってきたものですから。

古典を読むには少々時間がかかるかもしれませんが、自分のなかでの、哲学対話を行うことにもつながりますね。

↑私の哲学カフェのイメージはこれです。

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