じゃあ、哲学カフェで「哲学」を学べるのか?
てことなんですが、
答えは、一応NO が無難かなと思います。
但し、「哲学」は学べないけど、「哲学」を経験することはできる、と。
なんだか、禅問答。
つまりですね。
過去の哲学者が、考えてきたこと(理論や思想)、それが、歴史や文化に与えた影響、ないしは、歴史や文化からの影響。
それがいわゆる「哲学史」というアカデミズムの学問分野です(ざっくり、単純に)。
哲学史を教える人は、学問的訓練(大学院修了してるとか)を経た人でなければ、「最低限」、安心できません。
なぜ、安心できないのか?
それは、学問的訓練を受けていれば、正当な哲学史の解釈とか(とりあえず先生ご自身のご説は脇に置いといて)、学生に教えるべき最低基準(最低限の範囲)はわかっているはずです。
例えば、「西洋哲学史」という講義なのに、「よーし、今日は先生が脳と筋トレの話をするよ!」ていう教授はいないかと・・・(学内で問題になるわ)。
「西洋哲学史」講義なら、ソクラテス以前(タレスとか)から始まって、時間切れでハイデガーあたりですかね?
ともかくも、一定の約束事はあるわけです。
それを身につけているはずです(例外はありますよ、何事も)。
ところが、哲学カフェには、この約束事がない!
だから安心できない。
ですから、哲学カフェで、「哲学」を勉強しようとするのは、リスキーかもしれないんです。
但し、ここで「勉強」というのは、「哲学」そのものより、「哲学史」といった方が適切かもしれません。
「じゃあ、哲学カフェなんて意味ないじゃん」と、言われそうなんですが、それはそうとも言えない。
「勉強」としてではなく、「経験」として有意義なんではないかと。
「哲学を経験する」というのは、いくつか様態があると思います。
古典を読むことも、それを研究することも。
哲学カフェで経験するのは、「対話」という経験の形でしょう。
仮に、現実(現象)から本質や真理(抽象)を取り出す過程が、「哲学」とするのならば、それを自分一人の頭の中や、自分と本の二人だけ、もしくは研究室の中に閉じ込めずに、もっと大多数の人々との関係の中に放り出してみる。
放り出すというのは、その多数の中で「対話」してみる、ということです。
いやいや、これがなかなか侮れない。
プラトンの『国家』を学問に縁のない農夫に読ませたら、「こんなの、いつもわしが考えていたことじゃ」と言ったという逸話があります。
市井に、いわゆる哲学的問題を放り込んでみるのは、なかなか楽しい試みです。
目から鱗の視点や発想が飛び出します。
これって、哲学の原風景、ソクラテスがアテナイの広場(アゴラ)で、散歩ついでにあらゆる人々に対話を吹っかけていた姿と、どこか重なりませんか?
(このイメージなので、当カフェの名称は「アテナイの散歩道」なんです)
ですから、皆さん、哲学カフェを何か仰々しく考えないで、知と論理の「遊び場」として活用してくださいね。
なーに、ソクラテスのように命を取られることなんかありゃしませんから。