哲学カフェで、たまに見る光景なんですが、
「●●先生!」と、参加者が主宰者に呼び掛ける光景。
なんか、違和感あるんですよね。
哲学カフェの主宰者って、「先生」なんですか?
先生、てことは、何かを教える立場、ってことですよね。中国語じゃない限り(笑)。
哲学に師弟関係は成立しますが(ソクラテスとプラトンの昔から)、哲学カフェはどうでしょう?
大学の研究室、哲学史プロパーにおいては、これは容易に成立します。
だって、教育・研究機関だから。
何かしらアカデミックなことを教授している関係があります。
行われているのは、哲学史研究なので、学問的訓練の必要から先生-生徒の関係が必須になります。
対して、哲学カフェは、市井の人たちが集まって、哲学対話を試みる場であって、そこにアカデミックな保障がどこにもない。
アカデミックな世界は哲学史研究なので、学問的訓練の必要から先生-生徒の関係が必須になります。
(中には大学の教員・研究者の方がやってたりするので、それはその限りではないんですが。)
言うなれば、主宰者は、同輩中の首席に過ぎない(日本史の授業でよく出ましたね)。
幹事の域を出ません。
つまり、「教える」「教わる」の立場は常時入れ替わるといっていい。
いや、そもそも「教える」「教わる」の関係性の余地は、ほとんど無いともいえるかもしれません。
なぜなら、アカデミックな裏付けがない以上、誰も「教育者」と振舞えない。
そうなると、主催者も含めた全メンバーの関係性は、対等な関係にしかなりません。
私が「先生」という言葉に違和感を覚えるのはこの点です。
「先生」という言葉で表象される「教育者」というイメージは、危険な思い込みではないかと危惧します。
そこに上下関係が生まれると、遠慮や忖度が起こり、哲学的対話の道が歪められる。
もし、哲学カフェで「人間として成長する」みたいな教育的目標が必要なら、それは自分自身で成長(何かを発見)するしかありません。
哲学カフェは学校ではありません。
もし、あなたが、何かを教わりに来ようとしているなら、落胆するか、とんでもない誤解をしてしまうかもしれません。
私の友人が「哲学カフェって、本質的には、公民館でやってる俳句の会と一緒だよね」と評していましたが、まさにそれですね。
あまり気負わないで、それくらいの気持ちで来てください。