主催者の藤沢です。
10月6日は日本を代表する政治学者である、丸山真男(1914-1996年)の論文「超国家主義の論理と心理」(1946年)を読んで、日本の諸問題を考える会でした。
まずはこちらの写真を。
1つの論文が、未来社、岩波書店、平凡社から出ている(所収されている)んですね!
それだけ、影響力のある重要な論文であることがわかります。
さて、本題ですが、
今回、この論文を選んだきっかけは、ヘイトスピーチを見て、「一体、これは何なのか?」という漠然とした疑問。
その原因を考えて、行きついた論文が、この丸山真男の「超国家主義の論理と心理」でした。
参加の皆さんにも、最初に、今回の参加動機や簡単な感想を頂きました。
- 丸山は「そこに山があるから」(ジョージ・マロリー)のような存在。難解だが憧れ。
- 周りの人々の政治的無関心と右傾化に日々考えさせられているから。
- 天皇制の影響力を侮っていた。
などなど。
まず最初に議論になったのが、ヘイトスピーチのような差別の根源が、丸山の「天皇との距離」というのは、戦前はいざしらず、現在の象徴天皇制でも妥当であるかどうか?でした。
なるほど、確かに、昭和天皇と平成天皇(上皇)のスタンスはかなり違うし、民心も70年前と今ではかなり違う。
一見、天皇は、ただそこにいる文化的存在のように見えなくもない。
戦前は、御真影(天皇の写真)があちこちにあった。
でも、いまや、それは一般社会には皆無に等しい。
しかしながら、無意識に、我々の文化の基層に「天皇」はまだ確固として存在しているのではないか?という反論もありました。
確かに、御真影は無くなりましたが、それは単に、写真という「静止したメディア」から別のメディアに移った(発展した)だけではないか?
それは、「動くメディア」、映像メディアです。
皇室の動向は、逐一、テレビで報道され、その慶事となれば、全局挙げての報道合戦となります。
これは、写真や肖像画などの「静止したメディア」に比べると、各段に違うミランダ(情動による政治の権威化手段)となっているはずです。
また、「天皇との距離」は、日常のコミュニケーションにも表れている、との指摘もありました。
相手の立場(職位、社会的地位)を忖度して、常時、コミュニケーションを取っていないか?
つまり、「先生」「先輩」「後輩」「年下」「年上」etcとか、とにかく我々は上下(レッテル)を確認してからコミュニケーションを行っているというのです。
つまり、「天皇との距離」において、よりどちらが優位(近い)か?を、意識的・無意識的問わずに。
この延長に東大至上主義や官僚制の優位という現象もあるかもしれませんね。
敗戦で、皇軍も華族も消えた後、残ったのは官僚でした(政治家は、「卑しい国民」に選ばれているので論外です)。
官僚が今や、最も天皇に近い存在かもしれません。
これに付随して、東京と地方にも話題が及びました。
「なぜ皆、東京に拘るのか?」
時には憧れに、時には嫉妬の対象になる、愛憎入り乱れる地「東京」。
なぜ、東京がステータスなりえるのか?
これも、皇居の存在を指摘できますが、ここでは、別のアプローチがありました。
「東京」だけが、疑似的な近代空間である、と。
私の指導教授が、よく「東京だけが抽象空間だ!」と力説していました。
(これは何か出典があるのか定かではないのですが・・・。ご存じの方いましたら御教えください)
丸山は、 この論文で 、日本に「個人」がいないと、ナチスドイツと比較して論じていましたが、詰まるところ、それは、近代思想、わけても、近代政治学が理論化した「近代的個人」という仮説・仮構(フィクション)です。
そんな、近代主義の申し子たる「個人」は、明治以来、それこそ「近代化」の為の、学術・芸術の一大センターとして機能した「東京」にしか誕生(?)しなかったのではないのか?
「東京」以外の地方は、「アジア的社会」のままであり、その日本的表現が「ムラ社会」なのではないか?
これが「東京」をこの国で別格扱いする原因ではないのかという説です。
とは言え、その東京における近代的個人も「疑似的な近代的個人」として、疑似的であるが故に、「天皇との距離」という呪縛を完全には逃れていない。
これに対して、丸山の言う、「個人」は、特殊西洋近代の産物であり、それがそのまま日本論として導入するのは無理がある、そんな輸入概念は根付かないのでは?という反論も聞かれました。
確かに、丸山の近代主義、近代政治学の王道のような学問手法には批判もありますね。
・・・以上、一応、纏められそうな議論は文章にしてみました。
しかし、実際は、議論はもっと右へ左へ、上へ下へと飛んで、話が尽きない状況を呈しておりました(笑)。
逆に、それだけ、語るべき論点が多い、豊穣な論考だと言えます。
結論は出ているようで、出ていませんし、出るわけもありません。
それが哲学カフェだと思っております。
ただ、様々な見方・見識、論点があるのだと知っていただき、自身で読書を深めて行く、きっかけになれば幸いと思って運営しております。
最後に、私個人がいつも丸山真男に感じていることを。
それは、一種の凄み、です。
あるいは覚悟。
いやいや、どう転んだって、1996年の8月15日が命日というのは、なかなか・・・。
おっと、議論に熱中し過ぎて、会の写真を撮り忘れました!
有志の方参加の二次会の写真を挙げておきます!