主催者の藤沢です。
今回は池田晶子著『14歳からの哲学』を、すべて読んでいく連続企画の第1回目でした。
この本を選んだのは、専門用語なしに、日常の言葉で、語ってくれる、本邦では稀有な哲学書だと考えているからです。
この会は、土日祝日と平日の月2回、同じ内容で開催しています。
今回は第1回の平日開催にあたります。
参加していただいた皆様、ありがとうございました。
まず皆さんに、この本を読んだ感想を伺いました。
- 良い本だが、どこか浮世離れしていて、反論したい時もあった。
- 難しい言葉は無いけれど、本当に難しい。
- 昔はサラッと読んだが、他の読書会で読んで、「思索」することが強まった。
- 今、池田晶子が生きていたら、この本からどの位、考えが深まっているのか知りたい。
などなど。
池田晶子の本は、大きな力を持ちますね。
さて、会の方ですが、幾つか論点が出てきました。
まず「誰もが計れる正しい定規」なんてあるのか?という疑問が提起されました。
では、それが個々の人間を超えて存在しているなら、おそらく先天的なのだから、それは、我々が発見するものなのではないだろうか?
どうやって?
これには「論理」しかないのではないだろうか。
論理は個々の人間、いや、時空間を超越しているのだろうから。
そんな対話が行われました。
もし、哲学史を勉強なさっている方なら、プラトンの想起説やイデア論を思い浮かべるのですが、この会では、ほぼ、こういった哲学の専門知識なしで、議論しました(それが目的でもあります)。
また池田晶子が「思う」と「考える」を執拗に分けている点。
この違いを整理したいと声が挙がり、
- 「思う」:感じる、反応(反射的)、短絡的、主観、想像
- 「考える」:向き合う、客観、普遍
と思う思うに挙げていきました。
そして、「考える」に至る手段を考えよう、となり、ここで再び「論理」が登場。
また、自由の観点から、「思う」は、真偽入り乱れて、思い込みに支配されているので、「考える」ことによって、あらゆる前提を取り払ってこそ、「自由」になれるというご意見もありました。
他にも、「自分ひとりでも哲学はできるのか?」という、哲学カフェの存在理由をひっくり返しかねないお題(笑)。
これには、考えの共鳴や新しい論点・視点の発見があるから有益だとの一応の結論が。
ただ、結局、考えるのは、究極的には一人でするものなので(誰も他人に考えてもらうことはできない)、その孤独は付き纏うと・・・(「考える」と「死」だけは誰もが一人・・・)。
・・・と、まあ、いろいろな議論があったわけですが、最後に感想を頂きました。
- 「言葉」が無ければ現実なんてない。だから言葉を大切にし、その言葉を使う自分を大切にしたい。
- 「対話して考える」というのが、やはり哲学の本来の姿なのだと感じた。難解な哲学書を読むより、遥かに、こちらの方が難しい。
- 「言葉」が自分の世界を作る。いわば「言霊」の世界だなあと、感じた。言うと返ってくる。
- 「誰にとっても正しい」という事を考える前提の人生になりそうな予感がする。
・・・なかなか皆さん凄いですね。
これが池田晶子の力、否、哲学の力、か。
主催者の私としては、今回、頻出した「論理」(ロゴス)に関して・・・
「はじめにロゴスありき、
ロゴスは神とともにあり、
ロゴスは神であった」
ヨハネ伝
頭から離れません。