*2019年12月7日に開催した哲学カフェのレポートです。
こんにちは、主催者の藤沢です。
今回は押井守監督作品「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」をテーマに哲学カフェを開催致しました。
アニメーションを哲学カフェの題材にするのに驚かれる方もいるかもしれませんが、どの形態のメディアであろうと、そのコンテンツが思想的に重要であれば取り上げたいと考えています(映画でも、アニメでも、漫画でも)。
という訳で、アニメーションでの哲学カフェ第1回目となります。
ご参加頂いた皆様、ありがとうございました。
最初に皆さんからのご感想を伺いました。
- 常識の延長の延長。
- 未来に訪れるであろう違うレイヤー(階層)への予言。
- 公開当時、攻殻の超デジタルと、Windows95発売の長蛇の列というアナログな光景の対比が鮮烈に記憶している。
- SACと比べて論点・主張(作品テーマ)がはっきりしている。etc.
お話を伺っていると、神山健治監督の攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEXシリーズを見ていて、そこから逆に押井守版を見たという方が意外と多かったです。
さて、この作品を見れば、まあ、議論の方向は決まっていますね。
やはり、機械と人間、生命と非生命(死)の問題ですね。
やはり、本作のタイトルが意識している、デカルト批判(心身二元論)で有名なギルバート・ライルの「機械の中の幽霊」(Ghost in the machine)」について言及がありました。
また、上部構造に消えていく自我に関しても関心が高かったです。
個々人の意識・記憶が共有されたとき、もはや個は自覚できない。
それは多様性のない世界ではないのか。
多様性なしに進化はあるか?
この上部構造、個が溶け合う「海」は、私的には「世界霊魂」(Anima mundi)ではないか、と感じました。
そこでは依然、「場面」によって「個」が姿を顕す。
ちょうど、続編の「イノセンス」で草薙素子(?)が降臨したように。
人形使いと素子の融合(?)に、グノーシス主義を見るご意見もありました。
光の破片たる魂が、天使(アイオーン)と結婚することで完全になる。
人形使いと素子の「結婚」という見解です。
義体に関しても、人の形に拘っているのが何とも不思議だという感想がありました。
もっと便利な形態はあろうし、もはや必要ない酒や煙草を嗜む姿(文化?)も暗喩的。
人は人の姿を愛着し続けるのか?
義体の普及は「身体の拡張性」から、人間の定義は変化していくのだろうとも。
様々なご意見、論点が出てきましたが、一番面白かった(?)のは、
「ある意味単純なストーリー。それを上手く脚色している」
というものでした(笑)。
押井守、またやりまーす。