こんにちは、主催者の藤沢です。
今回は、三島由紀夫のエッセイから2つの論考を選んで、愛国心や国家について考える哲学カフェを開催いたしました。
ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。
最初に、参加者の方から、読んだ感想や三島のイメージを簡単に話していただきました。
- 三島事件に至った経緯がなんとなくわかった。
- 東大全共闘と三島の討論以来、三島が好きだ。
- 随筆故か捉えどころがない。
- ちょっと迷惑な日本論。
- 全く通用しない、三島は取り残されている。
- 多様性がなく、現代では困難な前提。
- 普遍的な部分(メタ)と特殊日本的な部分を分けてから考えたい。etc.
否定的な意見と肯定的な意見が、しっかり分かれる形になりました。
三島からの我々日本人への切実な「遺書」と読むべきという意見がありましたが、そもそも、「日本」という主語が大きすぎる。そんなに「日本」(あるいは「日本人」)は自明なのか?との反論も。
これは、政治学や歴史学では講義でも紹介されるし、常に議論される「国民国家(ネイションステイト)」の問題ですね。
近代国家は極めて人為的・人口的な産物なんですよね(フランス革命の前にフランス人は存在しない)。
こうなってくると、日本は別だ、という日本特殊論(日本は古代から連綿と存在している)も出てきて、白熱した議論になっていました。
議論の経過はさておき(まとめきれない・・・)、皆さまのご意見で気になった(勉強になった)点をいくつか・・・
- 三島由紀夫の公演など映像で見ると、文章とはだいぶイメージが異なる(自虐的でユーモラス)。
- 三島は強いのではなく弱い故に日本や天皇という「絶対」に憧れた。
- 日本人の「欧米」という括りがおかしい。勝手なユートピアを作って、それに憧れるからおかしくなる。
- まるで漫画の主人公の様な人生(興味が尽きない)。
- そもそも「日本論」は必要か?
- 三島由紀夫に文学的興味が無いので、先入観なしで読める。その結論は劣等感とマッチョイムズ。etc.
哲学カフェなので、「哲学」を冠する以上、余計な忖度・遠慮は無用、なので(礼儀や品格は必要ですが)、今回のように、はっきり見解が分かれてしまった方が逆に論点が分かり易いと思いました。
参加者の方の、丸山真男が「戦後民主主義」の「虚妄」に賭けたように、三島由紀夫も「日本人」という「虚妄」に賭けたのではないか?というお話が個人的には一番印象に残りました。
さて、参加者の方から、この映画はいい!というお話がありました。
私も観たことがあり、名作だと思っています。
それは、
- 『ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ』(原題: Mishima: A Life In Four Chapters)
- 製作総指揮:フランシス・コッポラ、ジョージ・ルーカス
- 主演:緒形拳
・・・しかし、日本未公開、ソフト未発売。
だが!観れる手段があるんです!
下記の雑誌に「付録」扱いで付いているんです!(あれ?新品ない?)