【開催後記】2019年12月11日 池田晶子『14歳からの哲学』を読む③~「家族」「社会」「規則」「理想と現実」を考える~

Shibuya

こんにちは、主催者の藤沢です。

池田晶子『14歳からの哲学』のリレー哲学カフェの3回目です。

前回までの総論的なものから各論に移ってきます。

今回は、社会や家族と言った人間関係・共同体のお話。

Philosophy cafe 20191211

ご参加いただいた皆様ありがとうございます。

今回は、家族にはじまって、社会や国家に至る、様々な段階の「人間集団」のお話でした。

まず、家族のお話。

参加者の方から家族を巡る議論には、そもそも間違いがあって、それは「生物学的家族」と「観念的家族」の2つがあるのに、これを混同しているのが混乱の原因ではないのか?というご意見が。後者の「関係性」にこそ、「家族」の本質があるのではないのか。

なるほど、養子など、血縁ばかりが家族ではないし、そもそも夫婦は最初から他人ですからね。

次に、社会に関して。

人が二人以上いれば社会ですが、その社会と家族の関係はどうなるのか?

参加者の方から、人間には「愛」と「自尊心」があって、前者は家族、後者は社会という見方もでていました。

前者は処世術であり忖度と遠慮と行間、暗黙の了解の世界。

一方、後者は、他の人間と一緒にされたくないという気持ちがあって、何らかのルールがなければ紛争の引き金になる。故に権力があり、明文化もされる。

また、国家と社会は違うのか?という問題も出ていましたが、難しいですね。

日本人は同じと考えがち、あるいは国家の方が上位の存在ですが、例えば英米では、国家は社会と対等の集団に過ぎないと考えますし。

福沢諭吉は、ソサエティ(society)の邦訳を「人間交際」と訳していましたが、こちらの方が適訳かな?とは思います。

そして、国家のお話。

みなさん、国家が観念に過ぎないなら、それに命を賭すとは、なんと不思議なことだろう。という声が。

ちょうど、参加者の方で、レマルクの『西武線異常なし』を読んでいる方がいて、考えさせられる論題でした。

私個人としては、国家が果たして、共同体なのか機能集団なのか?という議論が重要だと考えています。

それによって国家観、政治観は様変わりしますから。

Shibuya
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