こんにちは、主催者の藤沢です。
池田晶子『14歳からの哲学』のリレー哲学カフェの3回目です。
前回までの総論的なものから各論に移ってきます。
今回は、社会や家族と言った人間関係・共同体のお話。
ご参加いただいた皆様ありがとうございます。
今回は、家族にはじまって、社会や国家に至る、様々な段階の「人間集団」のお話でした。
まず、家族のお話。
参加者の方から家族を巡る議論には、そもそも間違いがあって、それは「生物学的家族」と「観念的家族」の2つがあるのに、これを混同しているのが混乱の原因ではないのか?というご意見が。後者の「関係性」にこそ、「家族」の本質があるのではないのか。
なるほど、養子など、血縁ばかりが家族ではないし、そもそも夫婦は最初から他人ですからね。
次に、社会に関して。
人が二人以上いれば社会ですが、その社会と家族の関係はどうなるのか?
参加者の方から、人間には「愛」と「自尊心」があって、前者は家族、後者は社会という見方もでていました。
前者は処世術であり忖度と遠慮と行間、暗黙の了解の世界。
一方、後者は、他の人間と一緒にされたくないという気持ちがあって、何らかのルールがなければ紛争の引き金になる。故に権力があり、明文化もされる。
また、国家と社会は違うのか?という問題も出ていましたが、難しいですね。
日本人は同じと考えがち、あるいは国家の方が上位の存在ですが、例えば英米では、国家は社会と対等の集団に過ぎないと考えますし。
福沢諭吉は、ソサエティ(society)の邦訳を「人間交際」と訳していましたが、こちらの方が適訳かな?とは思います。
そして、国家のお話。
みなさん、国家が観念に過ぎないなら、それに命を賭すとは、なんと不思議なことだろう。という声が。
ちょうど、参加者の方で、レマルクの『西武線異常なし』を読んでいる方がいて、考えさせられる論題でした。
私個人としては、国家が果たして、共同体なのか機能集団なのか?という議論が重要だと考えています。
それによって国家観、政治観は様変わりしますから。