池田晶子『14歳からの哲学』のリレー哲学カフェの4回目です。
今回は、平日回・土日回の両方をまとめてレポート致します。
ご参加いただいた皆様ありがとうございます(お写真は1月12日)。
さて、今回は、メインのテーマが「恋愛」や「愛情」といったものでした。
機微な問題でしたが、あくまで会話の流れを単純化して再現していますので、予めご了承ください。(管理人の主張・思想を書いているわけではありません。)
まず、皆さんのご感想。
- 孤独を愛するという「孤独」の正当化が良かった。
- 孤独を強調するが、それこそ人それぞれでは?
- 「恋愛=性欲」はスカッとした。
- 現実を超えた「本当」の世界を想定し過ぎ。
- 池田は「相手が自分の鏡」と言うが、その鏡が歪んでいる可能性を考えていない。
- 二次元の存在との恋愛、動物との恋愛は不可能なのか?
まず、「友情は傷の舐め合いで、なぜいけない?」とのご意見。
そうですね、これはやりますね。
池田が、友情を「無償のもの」として捉えているので、友情の範囲が狭すぎる、無償以外にもあるでしょ?と。
次に、性欲と友情と恋愛。
性欲が無いことが友情なのか?
下記のどちらなのでしょうか?
- 性欲あっての恋愛?→恋愛がツール
- 恋愛あっての性欲?→性欲がツール
古代ギリシアの「少年愛」の思想(理想)から、性欲なき恋愛についても、ご発言がありました。
ご意見であったのが、「身体性を大事にした方が良い」という指摘。
卑俗な例ですが、
- 男性同士の下ネタ:女性の性を対象化して、自分の身体性を語らない。
- ガールズトーク:相手の男性の話ではなく、自分の気持ち良さ(身体性)を語る。
と特徴付けられるかもしれない、というご意見でした。
女性的な身体性を重視する感覚がないと、そもそも文明は守られないとも。
池田晶子の議論の展開は、「環境」より「考え方」。
まずは「自分を変えろ」という形であり、これは自己責任論に帰着してしまわないか?
自己責任論的捉え方は、環境が不正な場合に、そのことを棚上げして、最悪、その環境を美化してしまう恐れがある。
池田晶子は、環境を変えるという感覚が乏しい強すぎる人なんではないか?と。
そんなにみんな強くない・・・。
つらつら書いてまいりましたが、若干取り留めの無き点はご容赦を。
さて、『14歳からの哲学』。だんだん各論になってくるに従い、本書に対しての参加者の方の疑問や批判が増えてきて、楽しんでおります(笑)。
余談ですが、池田晶子『14歳からの哲学』、というか池田晶子には、熱心な読者が多いです。
なので、池田晶子の回は、いわゆる「池田晶子好き」ばかりなのかと申しますと、左に非ず。
3割位は確かに、愛読者の方ですが、3割は、「池田の考え方は納得できない」という方が占めています(残り4割は初めて読んだ方とか)。
これはこれで健全だなあ、と思っています。
小説・作家のファンクラブではないので、池田の「言葉」をきっかけに、思考を深めて行く場ですから。
だって、本書の副題は「考えるための教科書」ですし。
「批判」なき哲学対話というのはナンセンスですからね。
池田晶子を「灯台のようなもの」と評されていた方がいらっしゃいましたね。
哲学は、「でもさー、色々あるよねー、アハハ」で終わらせてはいけない、批判し合っても、「考える」のだ。と。その為の灯台、あるいは発火点。
私の池田晶子のイメージは「喧嘩屋」です(笑)