*2020年3月7日に開催した哲学カフェのレポートです。
今回は、西洋哲学における古典中の古典と言えるプラトンの『ソクラテスの弁明』についての哲学カフェでした。
ご参加いただいた皆様ありがとうございました。
最初に皆様のご感想・ご参加の動機などを伺いました。
- 哲学科を卒業してしまい、こういう場がなくて参加した。
- 古典を読んで、議論できるのは、自分の血肉となり、とても有益。
- 読んでみたが、まだ考えがまとまらない。皆さんの見解を聞きたい。
以下、展開された議論・論点をご紹介します。
ソクラテスという謎
ソクラテスの人物像がいまいち掴めない。というご意見がありました。
これは、やはり著作を残さなかったからですね。
故に、プラトンの、クセノフォンの、アリストパネスの、それぞれの「ソクラテス」像が形成されている。
やはり、プラトンのソクラテスを我々は取り上げるわけですが、ある参加者の方は、ソクラテスは、考えること“しか”できなかったと表現されていました。
そんな、考えること“しか”できなかったソクラテスは、やはり珍妙な存在と見られますし、やがて、アテナイの人々から、ある種の脅威に映り始めたのではないか、と。
「神」という謎
そんな、考えるソクラテスを謎めいて、神秘的な存在にしているのが「神霊(ダイモーン)」の存在です。
このダイモーンとは何なのか?
意見には、「虫の知らせ」とか「良心の声」とか「直感力」とかではないか。
「ダイモーン」との関連で、「神」のお話も。
そもそも、「涜神」がソクラテスの罪状でしたね。
これは、アテナイ市民とソクラテスで「神」の意味が違った結果の悲劇とは言えないか。
前者が現実の人間の投影(擬人化)に過ぎないのに対し、ソクラテスは、人間を超越した神の導入(というか発見)をした。
ある意味で罪状は半分的を射ているかも?
「言語」の限界
なぜ、こんなに回りくどいのか?
これはプラトン対話篇全体に言えるかもしれません。
これは、言い表そうとしている「真理」が、言語以前ないしは超言語であるから必然的なのではないかとの意見がありました。つまりそれを説明している語彙が人類の側が持っていない(発見していない)。
また、我々は、この『ソクラテスの弁明』をどこまで「理解」できているのか?という問いも。
サピア・ウォーフの仮説のように、日本語で訳されている時点で、多くの取りこぼしがある筈だと。
「死」と無知
「死」を恐れることをソクラテスは戒めます。
「死を恐れるということは、いいですか、諸君、知恵がないのに、あると思っていることにほかならないのです。」
(岩波書店版『プラトン全集』より)
これには、人間は、「死」と「死に方」を混同している。本当に恐れているのは「死に方」のほうではないかと感じたと、仰る方がいました。
この混同も、言葉(概念)・論理の混乱ですね。
「死」については生者は皆、知らないのですから。
「ソクラテス問題」について
いわゆる「ソクラテス問題」。どこまでがソクラテスの思想で、どこからがプラトンの思想なのか?という論争です。
参加者の方は、プラトンがソクラテスから受け継いだのは、彼の思想や理論というよりも「姿勢」だと思うと、述べられていました。
最後に
最後に皆さんのご感想を伺いました。
- やっぱり「変人」だな、と思う。相当の。
- これほどの古典に対して、語るべきなのに、己の語彙が少なくて歯痒い。
- プラトン主義者だが、やや凝り固まっていたと思った。哲学プロパーでない方々のご意見は、本質を突いたりしていて、驚かされたり、気づかされたりすることが多々あった。
プラトンの対話篇は今後も開催していきたいと思っていますので、是非ご参加下さい。