一時大きな盛り上がりを見せた哲学カフェ・哲学対話も、コロナ禍の打撃を受けて、だいぶ下火になってきたようですね。
さて、同じく、コロナ禍で大きな打撃を受けたもののひとつとして観光業が挙げられます。
この一見全く関係なさそうな「哲学」と「観光」は、実は大きな類似点というか、関係をもっています。
と言っても、これは私個人の思い付き、自説ではなくて、哲学者の東浩紀の思想、「観光客の哲学」です
「観光客の哲学」
東浩紀は、「哲学と観光客は似ている」と論じています。
観光客は無責任にさまざまなところに出かけます。好奇心に導かれ、生半可な知識を手に入れ、好き勝手なことを言っては去っていきます。哲学者はそのような観光客に似ています。哲学に専門知はありません。哲学はどのジャンルにも属していません。それは、さまざまな専門をもつ人々に対して、常識外の視点からぎょっとするような視点を一瞬なげかける、そのような不思議な営みです。
東浩紀『弱いつながり』幻冬舎、2014年、155頁。
いわゆる「哲学知」というのは、諸学(専門知)・各ジャンルを横断します。
そもそも哲学は、諸学の源流であり、枝分かれする前の根っこの部分です。
その一種、特権的(?)な立場、普遍的・抽象的な視点から、さながら観光客のように、歩き回る。
その典型として、東はソクラテスを挙げています。
観光客は、訪問先を、遊歩者のようにふわふわと移動する。そして世界のすがたを偶然のまなざしでとらえる。ウィンドウショッピングをする消費者のように、たまたま出会ったものに惹かれ、たまたま出会ったひとと交流をもつ。だからときに、訪問先の住人が見せたくないものを発見することにもなる。
東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』ゲンロン、2017年、36頁。
哲学の視点だから発見できるもの、他者だから無遠慮に言えてしまう急所・核心。
哲学対話という観光、哲学カフェという観光地
この「観光客の哲学」が、極めて哲学対話と親和性が高いことには、もうお気づきかと思います。
「哲学」を冠するのだから当然といえば当然ですが、それ以上に、哲学対話には、「観光客」的要素が強い。
まず偶然性です。
哲学カフェは老若男女、出自も階層も問わずに門戸を開いています。
当日どのようなメンバーになるのかは、蓋を開けてみなければわかりません。
観光ツアーへ応募して、参加するのと一緒です。
次に「無責任性」。
そんな偶然集まったメンバーは、テーマに対しての知識・情報に格差がありますし、思想・信条も様々。
つまり、視点や議論の展開は、ほとんど予想がつかない。
そのテーマに関わる人(研究者や実践者、当事者etc.)の気付かない点、あるいは「見せたくないもの」にも無責任に突っ込んでいきます。
知らない故に見えるものがあるということです。
これをやって、最終的に「責任」を負わされたのがソクラテスであり、彼は死刑になります。
対して、哲学カフェ参加者は、まさか死刑にもなりませんし、観光客故に、その場に居合わせ、好き勝手に言って、去っていくに過ぎません(一過性)。ソクラテスのように責任を負わされることがないのです。
一期一会です。
アカデミズムの哲学にはない醍醐味と言えます。
共同体化という罠
ところが、この利点は常に失われる危険がありますし、現状の日本の哲学対話・哲学カフェにも、その傾向が強くなっているように見受けられます。
それは、上記の「偶然性」「一過性」「無責任性」といった要素が後退するということです。
一言でいえば共同体化、コミュニティとなってしまうこと。日本人的には「ムラ」化すると言った方がしっくりするかもしれません。
一種の観光客、「お客さん」になって、複数のコミュニティを適度な距離を保ちつつ渡り歩いていくのが、もっとも賢い生きかただと思います。
言い換えれば、あるていど無責任になろうということ。どこかのコミュニティに所属するたびに、そこで村人としてきっちり責任を果たしていこうと考えたら、できることは限られてしまいます。ある場所では村人でも、別の場所では無責任な観光客だからこそできることがある。そう考えてほしい。
日本人はとにかく村人が好きです。正社員が好き。ウチとソトを分けて、ウチで連帯するのが好き。
『弱いつながり』136頁。
人が集まって、継続参加して行けば、そこが共同体、ムラ化して行くのは、避け難いものがあります。
哲学カフェがムラ化すると、そこには、参加者同士の親愛や連帯感が生まれ、居心地の良さを感じられるでしょう(一過性の喪失)。
しかし、それは。「哲学対話」の本質とはかけ離れた事態を生じさせます。
常連メンバーのウチでは、遠慮や忖度がなされますし(無責任の喪失)、ソトからの新しい観光客は入り難くなります(偶然性の喪失)。
つまり観光(=哲学対話)よりも、ムラの秩序・平穏を優先し、実質、観光地ではなくなってくるのです。
やたらルールが増えたりするのもその傾向の現れです。
参加が手段ではなく目的となり、「ちょっと知的なサロン」以上のものではなくなります。
良き観光地であるために
では、哲学対話・哲学カフェが、その利点を活かし続けるためにはどうすればいいのでしょうか。
それは、常に、哲学カフェの場が、観光地化し続けるようにすること。
それは、ムラ化を防ぐという事です。
まず、テーマの多様性の確保でしょう。
多様な観光客に来てもらうためには、各回でテーマを色々と変えていく必要があります。
もちろん、各哲学カフェ主宰者はそれぞれ問題意識や思想傾向があって、会のテーマの方向性は一定の枠はあるでしょう。
しかし、例えば、札幌への観光の目的は、ジンギスカンひとつではない筈です。
札幌観光という枠があったとしても、ジンギスカン目的の人もいれば、海の幸の人もいる。夏の札幌を楽しみたい人もいれば、冬の札幌観光の人もいる。また、札幌でのショッピングを楽しみたい人もいれば、札幌の開拓歴史に思いを馳せたい人もいる。
一口に「札幌観光」といっても、その目的・嗜好は人それぞれです。
哲学対話のテーマ設定もそうでしょう。
これはメンバーの固定化を防いで、人の流動性を確保する為に意識するす必要があります。
次に、ハードルは上げ過ぎず、下げ過ぎず。
観光地があまりに厳しいルール、一見さんお断りのような場所だったら、好き好んで観光に訪れる人は少ないでしょう。
観光には自由が必要です。言論に自由が必要なのも同じです。
新陳代謝を繰り返さない哲学カフェは、観光地であることを止めてしまうでしょう。
オンライン哲学対話の弱点
コロナ禍で、一時爆発的に広がったオンラインでの哲学対話。
現状では、こちらも下火になってきているようですが、これも観光という視点で捉え返すと納得できます。
我々はネットサーフィンで、Googleマップで、世界中の場所を間接的に観ることができます。
しかし、「いつかはここに行ってみたい」という思いを募らせるでしょう。
それは、その場所の空気、土地を、空を、体感してみたい。
観光への欲求は、ネットでは解消されないのです。
哲学対話も、その場の空気、参加者の呼吸、場の熱気・温度、あらゆるものを体感したいと思っているから、わざわざ足を運ぶのです。
オンライン哲学対話は、その代替物には成りえなかったのでしょう。
【参考文献】
東浩紀『弱いつながり』幻冬舎、2014年、155頁。
東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』ゲンロン、2017年、36頁。