ETV特集「市民と核兵器〜ウクライナ 危機の中の対話」を見て~相互確証破壊と極限状況の哲学対話

ウクライナ首都キーウ

「怪物と戦う者は、己が怪物にならぬように気をつけるがいい。汝が、深淵を覗きこんでいる時、深淵もまた、汝を見つめ返している。」

フリードリヒ・ニーチェ

思うと、最近、めっきり、テレビを見なくなりました。

気が付くと、見ているのは、NHKばかり・・・。

あー。自分が齢を取ったなと感じるところです。

つい先日、録り溜めていたNHKの番組を、作業のついでに傍目で、流し見していたのですが、非常に興味深い特集と出会いました。

5/20に放送されたETV特集「市民と核兵器〜ウクライナ 危機の中の対話」です。

番組の案内人はボグダン・パルホメンコ氏。

ボグダン氏(ファーストネームで呼ぶには意味があります、後述)は、日本語を流暢に操り、戦火のウクライナの現状を、日本に発信しています。

そんな彼が、「核兵器」というテーマで、ウクライナ各地の人々と対話します。

おー、意図せずに、こんなところで哲学対話の番組と出会うとは。

おそらく、この番組の制作意図に「哲学対話」という考えは意識されていないと思われますが、結果的に哲学対話に関しての番組となっていました。

子供たちの欲しいもの

ボグダン氏がキーウ小学校を訪れて、日本からの支援物資を届けつつ、子供たちに質問します。

「いま欲しいモノは?」

子供たちから次々と声が上がります。

「平和」

「優しさ」

「楽しさ」

そして、

「お父さん」

そう言った少女の父親は今もウクライナ軍人として前線で戦っています。

更に、教室の中からは、「プーチンに死んで欲しい!」という声も聞かれました。

子供たちは明るいですが、戦時下の暗い影がそこには確実に差しています。

相互確証破壊の哲学対話

このETV特集のタイトル、「核兵器」と「ウクライナ」の組み合わせ。

国際政治に関心のある方だと、ピンと来ると思います。

そう、この番組のテーマは、「ブダペスト覚書」そのものです。

ブダペスト覚書は、ソ連邦の崩壊によって、棚から牡丹餅的に、ウクライナが核保有国になったことに端を発します。

そこで、米英ロの3か国は、ウクライナが核兵器を放棄する(ロシアに引き渡す)見返りに、同国の安全を保障するブダペスト覚書を1994年に調印しました。

その28年後。

ウクライナはロシアの全面軍事侵攻を受けます。

多くのウクライナの人々が、「核放棄は間違いだった」「核保有していれば、今回の侵略もなかった」と悔やむ中、ある人物は、「正しかった」と答えます。

それは、ウラジーミル・ドミトリエヴィチ・パルホメンコ。

そう、案内人ボグダンの祖父です。

彼は、元政治家であり、ブダペスト覚書当時の閣僚でした。

彼は「人類の進歩には必要だった」と述懐します。

ここでテーマになっているのは、「相互(M)確証(A)破壊(D)」です。

もっぱら米ソ両国に対して使われる国際政治学上の概念ですが、相互(米ソ両国)が、お互いを殲滅するほどの核兵器を保有していれば、開戦すれば、両国とも滅亡(破壊)は避けられないことが確証的なので、そこで均衡(バランス)が発生し、両国の全面衝突は起こらない。

もしウクライナが核を持っていたならば、これのミニマム版の相互確証破壊が成立し、少なくともロシアが核の脅しをかけてくることは無かっただろう、と。

番組中でも様々な意見が出てきましたが、この概念・システムは、人間理性についての深刻な、緊張した問いかけになります。

そして、アメリカの核の傘で、実質的に相互確証破壊に組み込まれている日本人にとっても無縁ではない筈です。

果して、核放棄か、MADか

戦争の「品格」

キーウに一時戻ってきていた若い兵士との対話もありました。

彼は、戦場で極限状態を経験し、見てきています。

強姦された女性や虐殺された子供や老人・・・

「心が折れそうになる。それでも私たちは、品格のある戦いを心がけている。尊厳をもって戦うことが重要だ。相手が獣だと、こちらまで獣になって戦ってしまいそうだが、私たちは絶対にロシアのようになってはならないんだ」

戦争という極限状態、言葉通りに「人間は人間に対して狼である」(ホッブズ)と化す戦場で、その意味は?

哲学対話はタブーなしですよね?

この番組は、哲学対話を企図している訳じゃないので、対話の進行を追っていないのですが、問いは次々と俎上に上ってきます。

(個人的には、各人の意見をもっと掘り下げて聞いてみたかったものです)

ウクライナの人々に突きつけられた現実と問いは、そのまま私達日本人にも突き返されています。

昨今の国際情勢は皆さんご存じのはずです。

日本の哲学対話で多く目にする、「問い」は、確かに重要でしょうし、当事者にとっては切実なのも事実でしょう。

しかし、どうも片手落ちの気がしてならない。

人間の悪意や敵意、その組織化・集団化・社会化も同時に考えなければ。

人間の悪意が、そのまま直接(ダイレクト)に、殺意とその手段を伴って、集団で自分に向かってくる「戦争」を、あるいはその基底にある「政治」や「国家」といったものを。

おそらく、これをやると、場が荒れたり、イデオロギー合戦、非難の応酬に堕してしまうと憂慮して、なかなか踏み切れないでしょう。

しかし、それを回避していては、「哲学」対話である意味がありません。

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