2023年8月末、池袋にて、読書会形式の哲学カフェを開催いたしました。
課題図書は、日本を代表する政治学者、丸山真男の代表的論文「超国家主義の論理と心理」(1946年)です。
「新しい戦前」などとも言われる昨今ですが、こういう時代に、「前回の戦前」を分析したこの論文を読む意義があるのではないか、と選びました。
ご参加いだきましてありがとうございました。
コロナ禍で休会して、3年振りの開催です。
まず、参加者がいるのかどうか、半信半疑で開催したのですが、蓋を開けてみれば、満員御礼、キャンセル待ちまで出てしまい、驚いております。
また、正直、どう運営していたか、どう進行していたのか、あまりのブランクに、半ば忘れてしまっていましたが、何とか無事終えることが出来ました。
ご感想
まず初めに、自己紹介を兼ねて、皆さんに一読した感想を伺いました。
- 我が国は全く変わっていないのではないか。昨今の自衛隊不祥事を目にしていると特にそう思う。
- 独学で人文書を読んできたが、政治についても知りたくなって参加
- かなり難解だった。
- 読んでいると、今でもドキリとした事がある。
- 1946年の時点で、ここまで、自分を含めた世界を客観化し分析しているのに驚嘆した。
- 天皇制というのが世界的に見ても、かなり特殊なものだと感じた。
- 道徳や共通善といったものが、国家に内包されているのに驚いた。
今回、参加者の大半が、かなり若い方で、丸山を初めて読んだ、知ったという方が多かったのですが、とても新鮮で刺激的な論文だったようです。
そういえば、政治学者の宇野重規(日本学術会議の任命拒否問題で、一般にもすっかり有名になってしまいましたが)が、「これまでに最も感銘・影響を受けた書物」として、この論文が収録された『現代政治の思想と行動』を挙げ、
文章が難しく辟易したが、ここには何かがあるということだけは、よくわかった
※1
と述懐していました。
ちょうど、参加者皆さんの読後感も、これと同じではないでしょうか?
その「何か」について、以下、自由討論となりました。
ドイツと日本
この論文では、ナチス・ドイツと日本帝国を比較して考察が進んでいきます。
そこでは、公的領域と私的領域の区分がなされているドイツと、それが存在せず公的領域に全てが包容されている日本が描かれている訳ですが、つまりそれは、日本には「自由な主体」としての個人が存在しないということを意味します。
このような構造が、戦後も継続しているならば、自由な主体を前提とする「多様性」とか「自由」が、どうも日本社会では、しっくりこない事の説明になるのではないか?という提起がありました。
このような構造、「隠された構造」が解明されなければ、いつまでも、「開かれた社会」は実現されないのでは、と。
戦後の「拠りどころ」
丸山は、日本人が「天皇からの距離」からの位置によって優劣が規定されると分析しています。
最も近い皇族・華族、中央官僚、帝国軍人から遠い庶民まで。
天皇という中心点を拠りどころとしている訳ですが、では、戦後、それはなくなったのか?
無意識で統治されている?
「正直、天皇というのを、今まで一度も意識したことはない」という感想がありました。
親世代まではともかく、現在の若い世代にもう、それは無いのではないか?
しかし、意識的にはなくても無意識にはあるかもしれません。
最も優れた統治とは、統治されていることを意識させないことではないでしょうか?
現代日本社会の政治的無関心は、逆に、「お上に全て任せる、丸投げ」という構造的な統治体制であり、その中心には、何が鎮座しているのか?天皇?それとも・・・。
天皇を日本の理想形として求める衝動は依然強いように感じられます。
例えば、秋篠宮家の内親王結婚問題での世論の紛糾・論争。
あれは、裏を返せば、皇族に相応しい「理想像」が、社会の中に存在しているから、自由選択を拒絶している訳です。
戦後あった様々な皇室バッシングも。
バッシングの裏には、無意識に天皇の理想化、拠りどころへの希求が顔を覗かせています。
ホロコーストを巡って
丸山は、残虐行為においても、日本とドイツは異なると指摘しています。
日本の捕虜虐待は、どこまでも天皇との「距離」の問題であり(天皇に近い日本人とその外の外国人)、また、国家が真善美を内包する故、権力と倫理が交錯してしまっていて、暴力が慈愛行為の面を含んでしまう点を指摘しています。
他方、ナチスのホロコーストは、自由な主体としての「個人」と「モノ」(ユダヤ人)の関係として捉えられると。
参加者の方からは、「であるならば、731部隊の行為は?」という提起がありました。
確かに、それはナチスの範型の方が近いと言えるかもしれません。
「良い独裁」?
日独の独裁体制・全体主義について論じていたのですが、
「でも、良い独裁ならばいいのではないですか?」
と、意見が出ました。
まず「良い(善い)」の定義から極めて困難なのですが、この問いは政治学史の始まりから繰り返されてきたとも言えます。
古代ギリシアのプラトンの哲人統治(哲人王)。
中世には「君主の鏡」論と呼ばれる、君主を「良く」教育しようという系譜がありました。
しかし、為政者1人(あるいは少数)に、全権をもたせることは、人が必ず誤謬を犯す存在であり、神でない以上は、極めて危険です。
近代以降は、故に属人的な統治よりも、システム(政治制度)によるそれを実践しようとしてきたわけです。
哲学対話と哲学史の関係
さて、一時のブームが落ち着いた感のある「哲学対話」界隈ですが、こういった会に初参加の方から、「哲学対話の会て、他もこんな感じですか?」と質問を受けました。
多分違います(笑)
多くの哲学カフェだと、専門用語禁止・哲学書禁止で、テーマのみ白紙での対話が、ポピュラーなのではないでしょうか。
つまり「哲学史」ではなく「哲学」を。という訳です。
それはそれで結構なのですが、そこに陥穽もあって、「車輪の再発明」を延々と繰り返す場合があります。
つまり、もう既に発見され、基礎知識とされていることを、必死で探すような。
加えて、小さなサークル内での対話・議論の為、視点が狭窄だったり、論理展開の矛盾や見落としから、とんでもない方向へ議論が流れてしまう危険もあります。
そのリスクを冒すならば、哲学史という「巨人」を前提(出発点・基礎・土台)とすることで、「巨人の肩の上」で対話することが安全であり、有意義な対話の近道なのではないか、と。
今回、別の哲学カフェの元運営の方もいらっしゃいましたが、「こんなアカデミックな内容で、人が来るのか?と、半信半疑で参加してみたが、満席で驚いた」といいうご感想を頂きました。
巨人に向かって背伸びしてみるチャレンジも悪いものではありません。
なお、こちらの「開催後記」は、次回開催分からメールマガジンのみの掲載にする予定ですので。ご興味のある方は、メルマガ登録もご検討ください。
【注】
※1.『哲学の歴史(別巻)哲学と哲学史』中央公論新社、2020年、359頁。
【参考文献】
丸山眞男『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1991年。
君塚直隆『貴族とは何か』新潮社、2023年。