*2020年2月15日に開催した哲学カフェのレポートです。
今回は、SF文学の傑作、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』をテーマに哲学カフェを開催いたしました。
ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました。
最初に感想をいただきました。
- 「フォレスト・ガンプ」と被った。変わらないガンプと変わろうとするチャーリーという視点を持った。
- 「偉くなること」を批判されているようで辛い。
- チャーリーと自分を重ねてしまう。
以下、主な議論をご紹介します。
成長と後退の物語
人が急激に変わってしまうことに、周囲が翻弄され、追いつけなくなることが主題ではないか?というご意見を頂きました。
これは、他の物語(映画、文学)で見られる主題でもあり、見出した天才に、やがて見い出した師が抜かれていってしまう。そんな普遍的テーマ。本作では、チャーリィに優越していたはずの周囲の狼狽。
この「抜かれる」ということへの混乱・嫉妬は、詰まるところ、「抜かれ慣れる」かどうかという、「慣れ」の問題だ、というお話が出ました。
ひとつの典型が親子ですね。子は親を超えていく。慣れざるを得ない。
また、この成長と後退の一連の悲喜劇は、人生における当たり前の情景を、「早送り」で回したものとも言えます。そのチャーリィと周囲の「時間」のズレの物語とも言えます。
知性と善意
今回の副題でもあるテーマです。
知性と人格の齟齬です。この知性が正邪と関係ないことが、人間にとっての悲劇です。
チャーリィが知能を上げていけども、傲慢も姿を見せてくることに如実に表れます。
また、チャーリィが最初に望んだ「知」というものが、無いものねだりである事も示しています。
タルコフスキーの映画「アンドレイ・ルブリョフ」の一節。
「知恵多ければ悲しみも多い。知識は悲しみに比例する。」
そもそも、「知性」は比較するものなのか。もっと、純粋な知性があるはずだとの声がありました。
本来であれば知性は、より「良い」(善い)に貢献しなければ意味のないものです。
「普通」って何だよ?
「普通」って一体何でしょう?
「普通」と「普通ではない」の、どこかに線引きをして、人を区別しますが、人間は、もっと複雑で多義的で、そのグラデーションのどこかに「線」を引くことの理不尽さがないだろうか。
そもそも、そんな線引きができるような平面的な、二次元的な理解で、人間を把握できるのか?
もっと立体的な、多構造な理解が必要のなのではないか?
言葉は“降りてくる”
キイスが、本作で1960年にヒューゴー賞を受賞した際、こちらも大作家のアイザック・アシモフが、「一体、どうしたら、こんな作品が書けるんだ?」と尋ねて、キイスが「私にもわからない。」と答えたという有名な逸話がありますが、これを聞くたびに、ああ、言葉は、“降りてくる”んだなぁ、と思います。
時代を超える「古典」を読むと、いつも、この感覚が付き纏います。