今回は、東洋のルソーこと、明治の思想家、中江兆民の『三酔人経綸問答』を読んでの哲学カフェでした。
ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました。
とても楽しいアイロニックな本で、皆さん、楽しく(?)読まれたようです。
特にオチが秀逸とのお言葉も。
明治期に、ここまで西洋政治思想を咀嚼している明治期のインテリの凄さに脱帽、なんて賛辞もありましたね。
そして、本書を読まれた方なら、この構図が、明治に止まらず、以後の日本の政治の長い長い「風景」だと感じるはずです。
戦後の55年体制などまさに、このままと言って過言ではない。
洋学紳士の唱える政治観は、社会党や左派知識人の思い描いた日本の“グランドデザイン”の原型です。
洋学紳士の語る「進化の神」は、進歩主義史観そのままです。
ただ、豪傑君に関しては注意が必要な気がします。
単純に、戦後の日本の保守に置き換えられない面があるからです。
豪傑君が単なる右翼・国家主義者じゃないところに魅力を感じるとの声が。
自らを「古いもの好き」として、「ガン(癌)」とまで言い切ります。
上手く、新領土獲得の手駒として利用できたならよし。
失敗して戦死しても、ガンが取り除けてよし。
どちらに転んでもよし。という、ある種自虐的というか自身も相対化してしまうリアリストの側面があります。
しかし、豪傑君の「危うさ」としては二点あります。
第一に改造主義。
新領土獲得にしろ、国内での粛清にしろ、多分にそれは改造主義です。ここは不思議と洋学紳士と同じところです。
二人とも改造主義で、南海先生に窘められます(南海先生はバークのような保守主義に見えます)。
第二にトラシュマコス的正義観。トラシュマコスはプラトン『国家』の序盤での登場人物として知られていますが、そこでの「正義」の定義は「正義とは強者の利益である」ということです。
これは、『国家』作中でソクラテスに論駁されるとはいえ、実際の世界、特に政治の世界においては説得力を持つ言説です。
故に、倫理的には重大な問題を孕むものです。容易に反論できない。
そんな、豪傑君は、一見、右翼・国粋主義的ですが、あまり、「日本」への拘りがない人物でもあります。新領土を獲得できれば、「日本列島」という“土地”への執着はほとんどありません。
ここで議論になったのが、土地フェティシズム。
兆民が知ってか知らぬか、豪傑君に政治的リアリズムを体現させておいて、日本の土地に執着する愛国者としては描いていいない点。
果たして、これをどう考えるか?
本作の三人は、部分、兆民の思想を顕在化しているという説がよく見られます。
この酒宴は一種の自己内対話。
もしかすると、インテリは抽象観念の世界で生きているので、土地への執着は薄いのかもしれないと、前々から疑っています。
特に、それは、「東京」において顕著な気がします。
私の指導教授は、「東京だけが日本で抽象空間だ」と力説されていましたが、これにつながるのかもしれません。
兆民のような優れた思想家には、「土地」に対しての執着が、あまりなかったのかもしれませんね。
それが豪傑君の発言に投影したのかも?と愚考致した次第。