課題図書はどうやって決めてるの?

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当カフェは、読書会形式を採用しています。

その課題図書はどういう基準で選んでいるのか?とご質問があったので。

目隠しして、書斎の本棚を無作為に指さしてです。

・・・嘘です。

石を投げないでください。

「汝らの中、罪なき者、まず石を投げうて」

(ヨハネ伝)

えーと、まず大前提として、「哲学と哲学史は違う」という事がありますね。

これは以前の記事でも書きました。

で、それを踏まえて。

あくまで、「哲学」の方の入門書を選んでいるつもりです(全部じゃないですが)。

「哲学」の方、というのは、つまり、現象(具象)から抽象への考察(議論)ができる本ですね。

その方法の訓練。

なので、畢竟、この方の本が多くなりました。

はい、お馴染み池田晶子女史ですね。

「考える」という事を始めようとした時、多分、彼女の本が最適かな、と。

これが「哲学史」の入門をやろうと企画していたら、全然違う方達の本を選びます。

その分野の知識を知るための最良の入門書を。

しかし、当カフェの趣旨がそこにない。

そういう「哲学史入門」みたいな事は、あくまでアカデミズムがやるべきことだと。

かつて、池田晶子が京都大学の藤澤令夫教授(ギリシア哲学、1925-2004年)との対談で、こんな事を言っていました。

「かつてのギリシャでは、ソクラテスとプラトンも、いわば役割分担をしていたともいえますね。

町に出ていって語る人と本を書く人。

そんなふうに、先生はアカデミズムでイデア研究をし、私は世間で本を書く。

そういう分業だと考えることもできますよね」


池田晶子『2001年哲学の旅』新潮社、2001年、127-128頁。

アカデミズムと哲学カフェの立ち位置は、これに近いかもしれません。

「哲学史」研究を含んだ「哲学」は、大変な知的鍛錬を必要としますが、「哲学」すること(考えること)は、万人に開かれています(開かれていなければならない)。

万人が学者になれるわけではないし、その必要もありませんから。

池田晶子は、熱烈な愛読者がいる一方、熱心な批判者も多いですね。

私が池田晶子を薦めると、反対する方も結構おられます。

曰く「エッセイであって、哲学ではない。」と。

しかし、なぜ随筆で哲学をすることがいけないのか、さっぱりわかりません。

「哲学史研究だけが哲学だ」というのはあまりに傲慢です。

(逆に、「哲学対話(哲学カフェ)が真の哲学の場だ」も傲慢です)。

ともかくも、私が学者の真似事のように、講義する形式はありえません。

それこそ、アカデミズムに失礼であるし、畏れ多い。

なので、哲学史をはじめ、各学問分野の通史的なものは、極力避けようと考えています。

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