*2020年2月23日に開催した哲学カフェのレポートです。
今回は「天皇」「天皇制」を考える哲学カフェでした。
当日は令和初の天皇誕生日でしたが、新型コロナウィルス禍の為、皇居一般参賀が中止になっています。
ご参加いただいた皆様、ありがとうございます。
今回は、池田晶子の天皇肯定のエッセイと小谷野敦の天皇制批判の著書を下敷きに、対話を展開しましたが、様々な論点・議論がありました。
以下でご紹介します。
物語と物語
天皇制を語る時に、これを「大きな物語」として捉える視点がありますが、他の「物語」を有する地域共同体があるのに、それを天皇という物語で覆ってしまうのは違和感があるとのご意見がありました。
東北や北海道、沖縄には固有の「物語」があり、それとの整合性の問題ですね。
ステータスと時間
日本の政治勢力がその正統性に天皇の承認を得て、権威付けしていく日本の歴史ですが、ステータスを担保するのは、結局、“血と時間”なのか?(長いことはいいことだ)
興味深いのは、学問になると、この血と時間が消え失せて、ただただその論理性・卓越性が基準になってくるのが好対照を成します。
ミランダとクレデンタ
リアリスティックな参加者の方からは、「天皇のツールとしての価値」というお話もありました。
皇室外交や日本国民の服従の調達としてのミランダ(象徴的・感傷的な権力の正統化と服従の調達)として有効であるならば価値があるのではないか?
小谷野敦の「象徴大統領制」(ドイツが典型)は、ミランダとして機能しないのではないか?という疑問です。
これには、反論もあり、国民が自ら選んだ象徴元首に権威を認めないなら、それは、国民が自らの主権に権威を認めていないことになり、デモクラシーそのもの崩壊につながるのではないか?と。
日本国憲法も近代憲法である以上、社会契約論を理論的土台にしています。
つまり、それがクレデンダ(知的・理性的な権力の正統性と服従の調達)な訳ですが、日本の場合、このミランダとクレデンダに微妙な“齟齬”があるところに問題の核心を感じます。
日本の場合、敗戦時に帝国政府が継続的に日本国政府に移行していった過程も関係するかもしれません(ドイツは中央政府が崩壊し、州政府単位でボトムアップ式に再建)。
国家観と天皇制
結局、政治体制としての「天皇制」の問題は「国家」をどう捉えるか?に帰着する気がします。
①英米型の「機能集団」(国家も他の社会集団の一つ)として捉えるか
②ドイツ型の「共同体」(社会の上位疑念)として捉えるか?
日本は完全に後者のイメージですね。
日本の場合は②のイメージを取る限り、天皇は家父長のイメージで、強く作用するでしょう。
ただ、日本国憲法のイメージは①に近いことがあり、ここで“齟齬”が生じます。
これをどう考えるかが課題になります。
ここで参考になるのが、丸山真男の視点だと思います(論文「超国家主義の論理と心理」)。
丸山真男に関しては、以前開催した哲学カフェと内容が重複しました。詳しくは下記のレポートをご覧ください。
宗教の深化とは何か?
政治思想の文脈から離れ、天皇の宗教性に関しても話題に登りました。
参加者の方から「天皇を間近にして涙する人達を見ると驚いてしまう。なぜ、そんな感情が湧くのか全くわからない」というお話がありました。
逆に言うと、多くの日本人にとって、そこまで天皇は宗教として受肉化・内面化しているとも言えるでしょう。
小室直樹は「日本は天皇教だ」と言っていますが、天皇を“エンペラー”ではなく“プリーストキング”として捉える視点が重要かもしれません。
海外の人(キリスト教徒やイスラム教徒)から言わせると、日本人は、自分たちが気づいてないほどに日本固有の宗教に帰依していると指摘できるというお話を、参加者の方からいただきました。
この日本固有の宗教、というのが、「天皇教」かもしれません。