アニメーションやコミックを哲学的に扱おうとすると、必ずや比較的ご年配の方から批判や疑問の声を戴きます。
曰く「なぜ子供向けの幼稚なものを、哲学という場に持ち込むのか?」
これに関しては、二つの視点からお答えしようと思います。
世代間格差の宿命
まず第一に、アニメやコミックを「子供向け」という捉え方をしてしまうのは、宿命的な世代間ギャップの問題です。
これは、いい悪いではなく、仕方ない事だと思います。
世代間格差の宿命です。
どの表現形式でも、黎明期においては幼稚であったり、試行錯誤の最中であって、多くの場合、大人(というかインテリ)の鑑賞に耐えられないと思います(映画でも写真でもあらゆる「作品」)。
しかしながら、いずれ、高尚な作品群は現れる。
つまり、その表現形式「だから」、知的レベルが低いということは無くなります。
小説、戯曲、思想書、はたまた芸術作品であっても、その形式だから無条件に、「高尚だ、知的だ」にはなりませんよね。
高尚な思想性の高い文学もあれば、低劣(?)な文学、消費される大衆文学もあります。
いわゆるサブカルチャーも同じです。
思想性の高い高尚なアニメーション・コミックもあれば、その逆もあります。
どの分野もピンきりです。
アニメやコミックを知的分野(対象)で扱うのに、今の若手のインテリに抵抗はないでしょう。
岩明均、庵野秀明でも押井守でも通じますね。
しかしながら、やはり、老齢の大学の先生にアニメーションを勧めるのは、やっぱり悪手だと思います。
そこを「無理やり」理解させようとしても無理でしょう。
サブカルに慣れ親しんできた世代と、その上とでは、感性に違いがあると思います。
いずれ、私も、歳を重ねると、新しい表現形式に「抵抗」を感じるだろうから、お互い様でしょう。
そこは、棲み分けていればいいと思う。
但し、年長者が「理解」できないという理由で「否定」することを慎んでいれば。
という訳で、気持ちは若い(?)ので、臆することなくサブカル的な作品も題材にしていきます。
学問の「対象」と「方法」
第二に、哲学、というか学問は、そもそも「対象」を限定することで、学問たりえるのか?という問題です。
これに関しては、次の逸話を紹介します。
90年代初頭に、社会学者の宮台真司が、女子高生の、いわゆる「ブルセラ」「援助交際」に関しての研究を公にし、バッシングを受けました。それに対して、師匠である小室直樹は、次のように宮台を擁護したそうです。
「宮台くんのブルセラ研究、援助交際研究は素晴らしい。いろいろ文句をいっているヤツがいるようだが、気にしてはいけない。学問のアイデンティティーは『対象』によって決まるのではなく『方法』によって決まるのである。(中略)社会が変化してきたのであれば、ブルセラ研究、援助交際研究が出てくるのは当然である」
村上篤直『評伝 小室直樹』(下)ミネルヴァ書房、2018年、521-522頁。
学問の対象は無限定です。方法論によって学問になる。
アニメーションなどのサブカルチャーも、現代に「現れた」以上は、当然対象になります。
方法論で言えば、「哲学」のそれは、対象を抽象化し、本質を明らかにするとでも言えましょうか。
という訳で、臆することなく対象を広げていきたいと思います。