*2020年3月18日に開催した哲学カフェのレポートです。
今回は、先月に引き続いて、「死刑の哲学~萱野稔人『死刑 その哲学的考察』を読んで~」の哲学カフェを開催致しました。
開催日の前々日には、神奈川県相模原市の福祉施設で起こった大量殺人事件で、横浜地裁で死刑判決が出たばかりでの開催でした。
ご参加頂いた皆さま、ありがとうございました。
まずは本書を読んでの皆さんのご感想を。
- 死刑制度は漠然と無い方が良いと思ってきたが、読了後、明確に無い方が良いと思った。
- 昔からカントが嫌いで、本書のカント批判に感銘を受けた。
- 論理展開が明瞭で、萱野先生(著者)のファンになった。もっと、他の著作を読みたい。
- 死刑廃止の代替刑が思いつかないし、果たして終身刑導入が適切なのかも、よくわからない。
今回は、死刑と切っても切り離されない「殺人」にフォーカスした内容となり、前回の同じテーマの会とは全く違う議論の流れになりました。
是非、前回分の開催レポートもあわせてご覧ください。
前回の開催レポートはこちらです。
「殺人」のグラデーション
罪と罰に関しての話が中心となった会でしたが、「人を殺す」ということで共通している戦争(兵士)と殺人犯は一体何が違うのか?という声がありました。
これに対しては、コミュニティの評価の問題に過ぎないのではないか?との回答。
たまたま、そのコミュニティの慣習・規律に反した範囲での「殺人」が罪として認知されるだけということです。
しかし、例えば、警察官が止む無く凶悪犯を射殺した(緊急避難)、父親が子どもを守るため凶悪犯を殺害してしまった(正当防衛)、といった事柄と、わいせつ目的で女性を殺害したとか、金目的で見ず知らずの人間を殺害した強盗といった事犯を一緒に議論するのは、やはり我々の自然な感覚に反する、という声も上がり。
つまり、殺人という行為には、下劣な感覚的にも嫌悪すべき殺人と、そうではない殺人という両極があって、そのグラデーションはどうなっているのか?という線引きの議論が中心になりました。
本書に即して言えば、それは、道徳の限界(時空間によって相対化する天秤)として、放棄?(保留)される点です。
「破廉恥罪」と「非破廉恥罪」
殺人にも破廉恥と非破廉恥の区別はあるのではないかと。これは聞きなれない言葉かもしれませんが、冗談でも何でもなく、使われている概念です。
自己の金銭欲や性欲等の私利私欲を目的にした殺人は破廉恥罪であって、他の殺人と区別すべきではないか?
破廉恥罪というのは、違法でかつ道徳的にも許されない犯罪のことです。
対して非破廉恥罪は、違法だが道徳的にも許されないとは言い切れないものです。
後者はイメージし難いかもしれませんが、過失犯(交通事故等)や政治犯が該当し、基本的に懲役刑ではなく禁固刑が科されます。
結局、これも、本書が言う、時代や国家で変動する道徳の天秤に過ぎない、と切り捨てることは可能なのですが、参加者の方からは、「いや、それでも普遍的な道徳からの演繹は放棄すべきではない」との声がありました。
もう一度、道徳に還る
グラデーションの両極が、我々の直感で区別できるならば、必ず、「普遍的な基準」は見い出せる希望はあるのではないか。
「死刑」というよりは、「殺人」の話が中心になった会でしたが、一周回って、道徳(道徳哲学、倫理学)の可能性に戻ってきた感のある2時間でした。
さて、死刑や刑罰に関わる哲学カフェとしましては、2020年4月に、映画「12人の怒れる男」で開催致しますので、ご興味がありましたら是非ご参加ください。