*2020年2月26日に開催した哲学カフェのレポートです。
「始まっていますよ、とっくに・・・。
気付くのが遅過ぎた。
柘植がこの国へ帰って来る前、いや、その遥か以前から戦争は始まっていたんだ。」
(後藤警部補・本編より)
今回の哲学カフェは、押井監督の長編アニメーション映画「機動警察パトレイバー2 theMovie」をテーマに2回に渡り開催いたしました。今回は2回目の開催レポートになります。
1993年公開。
既に公開から27年を経ていますが、まったく色褪せない、日本アニメーション史上の最高傑作であり、最大の問題作です。
・第1回を2/23
・第2回を2/26(今回のレポート)
第1回のレポートはこちらをご覧下さい。↓
ちなみに、作中では、23日は、後藤と荒川によるこの国の「戦争と平和」の問答が行われ、三沢基地が籠城状態に突入する日。
26日は、“ヘルハウンド”が首都東京を蹂躙する日です。
ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。
皆様から最初にご感想をいただきました。
- 大学時代に観て、その時はピンと来なかったが、9.11の時にこの作品が思い浮かんだ。
- 南スーダンPKOの日報問題でこの作品を連想した。
- 日本は「根」で変わらない。
様々な論点・議論があった会でした。
主要な点を眺めてみたいと思います。
最初からの負けゲーム
本作は、最初から負けゲームという視点。
柘植がミサイルを発射した時点で、この国の「戦後」は終焉を決定づけられている。
なので、その後の後藤と南雲らの戦いは、どう“負けて見せるか”というだけ。
つまり、どう収めるか?だけです。勝ちはない。
ちょうど、1945年8月14日までの日本と同じですね。
敗戦必至だが、どう負けてみるか、で紛糾する。
また、この最初から負けゲームというのは、前作パトレイバー劇御版1も同じです。
柘植の目的
柘植の目的についても、仄めかされていますが、意外と暈かされています。
参加者の方からは「お前らの国(政治社会)はその程度のもんなんだよ」という柘植(押井守)の嘲笑なのではないか?というご意見がありました。
それは、柘植にナショナリズムといったものが感じられないからだと。
そういう意味では、イデオロギー色が強くなりがちな多くのポリティカルフィクションと、本作は「政治」の「次元」が違う作品と言えるかもしれません。
また、今回、こちらの記事を参加者の方に読んできていただき、議論したのですが、
「戦後を終わらせた後、一体どうなるというのか?」という疑問もありました。
結局、それで政治体制が激変しても、この国の「本質」が変わるわけではないのだから・・・。
他にも、「戦後」という幻想を打ち破るのは、同じ「幻想」(存在しないF16J、幻の爆撃、存在しない決起部隊)でしかないから。という声もありました。
その事象を知っていると思い込んでいたが、それが「幻想」に過ぎない、思いもよらぬものだと教える(告げる=柘植)な作品だ、と。
南雲忍という女
南雲忍が柘植を撃てなかった点。
それを情愛で語るのは簡単なのかもしれませんが、翌朝の警視庁での幹部会議での彼女の“激情”との対比が印象的です。陰影的ともいえる。
「女」と「警察官」のヤヌス(双面神)性。
そこに男性は魅力を見出すのかもしれません。
ちなみに、南雲忍の声優の方は本作における彼女の演出が不満だったそうです。
「正義の戦争」か「不正義の平和」か
これも政治哲学における永遠のテーマと言えるでしょう。
シリア難民やイラク内戦の現状などを見ていると、果たして「アラブの春」とは何だったんだろうか?という思いを強くします。
社会システムを刷新する為には「内戦」は必然だ、というご意見も出ました。
それがなければ、歪な形で旧システムが存続してしまい、衰退につながる、と。
最後に
この他にも学問(学界・大学、インテリ)と政治(政府)の関係(距離)に関する日米比較や、「市民と村人」論(日本人は対話のできないムラ人=学問の不徹底の原因)など、興味深いテーマが出ました。
作品の性格上、テーマが多岐に渡り、2時間は瞬く間に過ぎました。
また来年の2月も、催せたらと思っています。
本作の政治哲学的考察に関しては以下の記事(全三回)が詳しいので、ご興味のある方はご覧ください。
また、本作内の時系列はこちらの記事に整理されています。