*2020年2月23日に開催した哲学カフェのレポートです。
「戦線から遠のくと楽観主義が現実に取って代る。
そして最高意志決定の段階では、現実なるものはしばしば存在しない。
戦争に負けている時は特にそうだ。」
(本編より)
今回の哲学カフェは、押井監督の長編アニメーション映画「機動警察パトレイバー2 theMovie」をテーマに開催いたしました。
1993年公開。
既に公開から27年を経ていますが、まったく色褪せない、日本アニメーション史上の最高傑作であり、最大の問題作です。
ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。
皆様から最初にご感想をいただきました。
- 初のPKO(陸上自衛隊の国連カンボジアPKO派遣)の時と期を同じくして観て、鮮烈に記憶に残っている。
- この国の体制や国民は、一体どこへ向かうのか?という思いを強くした。
- まず日本では視聴率がとれない作品。
- むしろレイバーが邪魔な作品。汎用性も実用性もないロボットを皮肉っている。
- 枷があった方が傑作を作れる稀有な映画監督。
- パトレイバー2とゴーン・ガールが情報戦映画の二大巨峰だと思う。
様々な論点・議論があった会でした。
主要な点を眺めてみたいと思います。
第二小隊は関東軍か?
組織論のお話が出ました。
企業などでも、上位の決定が不合理であったり、優柔不断であったりで、結局、現場が辻褄を合わせることがある。
本作の後藤ら第二小隊は、詰め腹覚悟(というか不法に)、埋め立て地へ突入します。
いわば日本政府の尻拭いです。
しかし、これは裏を返せば現場の独走であり、いつも良い結果に導かれているわけではない。
いわば、これは関東軍と同じではないか?
第二小隊の行動はそんな二面性があります。
また、もっと近しい時代で考えれば、ミグ25函館亡命事件ではないかと(この事件は荒川も劇中で言及しています)。
ちょうど、第二小隊の立場に、ある意味似た状況に追い込まれたのが、函館駐屯地の第28普通科連隊でした。米国からの「ソ連軍函館奇襲攻撃の可能性大」の情報がありながら、東京の政府は沈黙している。
連隊は独自の判断で出動準備を進めます。
法的根拠も、政府の指揮も、三軍同士の意思の疎通も取れないまま・・・。
有事が目前に迫った時に日本政府が取った行動は長く記憶されるべきでしょう。
後藤という男
上記の延長で、本作の主人公である後藤喜一という人物像について。
今回の事態を何とか終息させようと“現場”で動くわけですが、このような現場の“切れ者”というのは、確かに、上層部の無能と現実の齟齬を埋め合わせるのに最適なのですが、そのキャラクターに属人的に負っている為、その人間がいなくなると途端に破綻する。
そんな日本的組織の弱点を曝け出すためのキャラクターとも見えるというご意見でした。
また、そんな、キャラクター、いうなれば“浪人侍”が日本人が好きなこと。
それが、「組織の冷徹さ」に徹しきれない日本人の「甘さ」でもある、と。
「自衛隊」とは何か?
自衛隊をどう考えるか。もっと言えば、「自衛隊は軍隊なのか?」
これは、憲法解釈の問題としてではなく、その組織原理の本質として「軍隊」と呼べるかどうかです。
警察と軍隊は、物理的強制装置、「暴力装置」(ウェーバー)として内と外に向きますが、両者の本質的差異として、ポジティブリスト(許可事項列挙)なのか?ネガティブリスト(禁止事項列挙)なのか?が挙げられます。
警察官が法執行主体として、法的に許可された執行権を行使するのに対して、軍隊は、禁止された事(戦時国際法・ROE=交戦規定)以外は全て原則自由です。
自衛隊は、その装備・編成こそ軍隊ですが、その法的行動様式は警察のそれ(ポジティブリスト)であり、“兵士の姿をした警察官”であり、実質的には「警察軍」です。
国際政治学者の三浦瑠璃が「自衛隊は“第2警察”だ」と述べていましたが、慧眼だと思います。その誕生も「警察予備隊」であったし、警察官僚の影響下に長く置かれます)。
この、「警察軍」という、キメラ的状況がすべての原因とも言えるかもしれません。
政治は「善意」で動かない
「ねえ、落ち着いて考えてごらんよ。
今俺達が何をすべきなのか。
それぞれの持ち場で何かしなくちゃ、何かしよう。
その結果が状況をここまで悪化させた、そうは思わないか?」
(本編より)
政治は結果責任だと言われます。
たとえ、どんなにプロセスを努力したとしても、動機が正しかったとしても、政治的目的を達することが出来なければ、そこに意味はない。
なんとかしようとする「善意」がここでは裏目に出ます。
「地獄への道は善意で舗装されている」(ゲーテ)。
むしろ、悪意の方が、その狡猾さ故に引き際を知っているとの声も。
本作では、米軍の影が常にちらつき、最後には、最大の試練として立ち現れます。即ち、最大の漁夫の利を得ようと。
マキャベリズムではありませんが、「政治的目的」(国益・国利)を貫徹しようとする狡猾さと悪意が一番顕れている存在ともいえます。
テニスをされる参加者の方が、テニスは日本人に向いていないというお話をされました。
テニスの国際試合だと、様々な駆け引き、心理戦を仕掛けてくるので、日本人は翻弄されやすいと。
国家に永遠の友はいない。
永遠の敵もいない。永遠なのは国利だけである。
(ヘンリー・パーマストン)
また、米軍との関係で、そもそも、日本が主権国家なのか?という声も。
「主権」はジャン・ボダンの確立した政治学上の概念で、「一定の領域において、不可分、不可侵、絶対的な最高の権力」と纏められますが、これをこのまま適用すれば、在日米軍という治外法権を抱える日本は、純粋な主権国家とは言えません。
ただ、逆に、純粋な主権国家が一体世界にいくつあるのか?NATO諸国にも米軍は駐留していますし、自国軍の指揮権を差し出している国すらある。
国連安保理常任理事5か国や反米国家、核保有国など、その数は少ないのではないか?
そこは悲観すべきところなのか、とも考えられます。
タルコフスキーと押井守
映像論としては、作品で多用される、魚、犬、鳥、そして水の象徴性が、ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーの強い影響を感じるとのお話もありました。
タルコフスキーは、別に会の企画もございます。
最後に
あまりにも時間に対して、テーマが多岐に渡り、2時間は瞬く間に過ぎました。
政治的側面に大きく議論が割かれた形になりました。
本作の政治哲学的考察に関しては以下の記事(全三回)が詳しいので、ご興味のある方はご覧ください。
また、本作内の時系列はこちらの記事に整理されています。↓